AK Co.

Season'sTips


Back number
Vol.28 音楽塾オペラ鑑賞
 10月19日−小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVI−ロッシーニ歌劇:「セビリアの理髪師」を夫と2人で観に行く。これは小澤征爾氏がオペラを通じて若手音楽家を育成することを目的に2000年より毎年開催しているもの。この日、私も3年ぶりで上野にある東京文化会館に出かけた。

 平日の、しかも午後6時30分の開演だったためか、会場は開演5分前になってもほぼ半分の席が埋まっただけだった。開演時刻は10分ほど遅れたものの、結局観客席はほとんど満員となり、何やらほっとする。

 灯りが暗くなりマエストロが入場してくると、観客全員がわれんばかりの拍手喝采で迎える。やはり皆、オザワ氏を観に来たのだというのがよく解る。彼はまず、楽団員全員を励ますように立ち上がらせて拍手に答えた後、オーケストラ・ボックスの全面の高い壁に両手をかけて、にこにこしながら観客に向けて何度も頷いている。まるで笑うマルチーズ犬のような印象が、灰白色のふわふわの髪でさらに強調される。しかし前奏曲をはじめたとたんに、野鳥の森に住むモモンガのような、あるいは沼地に住む仙人(ヨーダ)のような、この世のものでないような独特の気配に変わってしまう。
 私達の席は3階の左側の最前列だったため、オザワ氏の指揮ぶりがとても良く見物できる。前に観た「ドン・ジョバンニ」の時は、オーケストラ・ボックスが視線の下に埋め込まれてしまう位置にある席だった。それがもの足らなくて、今回はあえて3階席をとっておいたのだ。オザワ氏はときおり、シュッシューと息(気?)を吐きながら、若いメンバーばかりの楽団員を牽引するのだが、彼らは皆、ひとりひとりの定位置にきゅっと引きこもるような緊張ぶりで、演奏もたいへん固く、何やら音楽学校の卒業演奏会といった印象が余計きわだってしまう。聞いている私も、大丈夫かなっ?と体に力が入ってしまうほど。

 その状態がようやくほぐれたのは、主役の理髪師フィガロが登場したところだった。
フィガロ役のバリトン、アール・パトリアルコ氏はe+チケットの宣伝文によれば、「今回が音楽塾初登場。現在、メトロポリタン歌劇場などで活躍している注目の若手歌手」とあるが、たいへんな逸材と感じる。
体はマエストロのゆうに5倍はあるほどの巨漢なのだが、若さのためか動きがコミカルで軽く、顔も赤ちゃんのように愛くるしい。マエストロの牽引に息も絶え絶えになりながら、ついていこうと固くなりすぎているオーケストラ団員達を励ますように、すばらしいつやのあるバリトンで場内を圧倒し、さらに大きなおしりをフリフリと揺すりながら歌った『わたしは町の何でも屋』は圧巻だった。<フィ〜ガロ・フィガロ・フィガロ・フィガロ・・・>と、早口で機転の利くまさにフィガロそのものなのだ!

 楽団員をさかんに引き揚げようとするオザワ氏を、フィガロ君が脇から強力にサポートする形で、演奏はようやく華やぎと余裕が出てきた。私はフィガロ君に目が釘付けで、彼の一挙手一投足に笑いが止まらず、大汗をかくほどだった。
演出のデイヴィット・ニース氏は、カーテンコールで見ると、まるで現代的なアメリカン・ビジネスマンのような風貌なのだが、内実はとてもお茶目な人らしく、客席からは何度も大笑いがおこる劇の進み行きなのだ。

 25分間の小休止を挟んで、後半が始まってまもなく、ロジーナ役のソプラノ独唱が始まろうとするときに、かなり強い地震があった。観客も小声で「あっ、地震!」とささやき合い、舞台ではセットが小刻みに揺れていた。それは3階建てのスペイン風の家になっているのだが、2階部分に誰も役者がいなかったのは幸いだった。
観客席上の釣り天井も揺れていたため、マエストロはどうするかな?と思って見ていると、まるで一瞬のゆるみもなく演奏は続けられた。おそらく、踊るようにして指揮を執るオザワ氏には、地震の揺れが感じられなかったのではないだろうか?

 後半も大笑いのうちに終了し、カーテンコールは4回も続いた。オザワ氏はまず自分よりも若い楽団員を全面に押し出すようにしてその拍手を受けていた。それから登場した役者や合唱隊、通訳の若い女性、演出家、それらすべての人たちと、野球の選手がヒットを打ちベンチに戻ってきた時にするように、両手をぱちんと打ち合わせてお辞儀をしていた。

 帰りの電車で、オザワ氏の人気はやはりたいしたものだねえ、などと夫と話し合う。私が、「オザワ氏の若手を育成しようとするライフ・ワークを、観客が応援しようとしているね。」と言うと、夫は、「日頃のサイトウ・キネンや音楽塾に対する彼の姿勢を、みんながよく見ているからだよ。」と言っていた。実になるほどと思う。

 マエストロの点した松明を、主客一体となって皆で燃やしていこうとする気持ちが深く伝わってくるような、心地よい一体感のある公演だった。



home

禁無断転載・リンクフリー (c) AK Co. All Rights Reserved.


home