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Vol.33 T先生をめぐる記憶(1)
 今年5月、私が14才の時に師事したピアノの先生であり、それ以降のおよそ10年間、最も身近な友人でもあったT先生が癌で亡くなられました。享年56才でした。この出来事は、なにか自分の身体の一部が死んでしまったような感覚を私にもたらしました。T先生に対してまだ宿題を提出しないままでいる、という強い焦りの感覚が私に残されました。実際にその宿題が何を意味しているのか理解するために、T先生と親しく触れ合っていた当時の記憶をひとつずつ掘り起こすことから、まず初めてみたいと思います。


 T先生に出会う前の私がどのような子供だったか、まず思い出してみたいと思います。私は2才の頃から、水田と鎮守の森に挟まれた麦畑の中で育ちました。空や雲や草や木などに対する興味がとても強く、竹やぶや雑木林を探検したり、秘密の花畑を探したり、たったひとりでよその家の庭をシャベルで掘り返して遊んでいるような子供でした。そうかというと、近所の男の子とよその人の家の壁に石を何度もぶつけて穴を開けたりしたこともあります。小川でオタマジャクシを両手でやまのようにすくっては、土手にばらまいたり、畑の植木に赤とんぼがたくさんとまっているのを捕まえようと、やたらに網を振り下ろして何十匹も添え木に串刺しにしてしまったこともあります。

 小学校に入る頃になると、次第に近所に人家が増えてきました。それらの家に引っ越してきた年少の友達と、毎日真っ暗になるまで外で遊びました。小学校で友達を作るときにはいつでも、仲間はずれになっている子や、ひどく引っ込み思案で友達と遊びたいのに仲間に加われないでいる子を、そっと誘い出して密かに別の遊びを提案するようなことが多かったように思います。クラスの中で、どちらかというと自分ははみ出し者だという意識がありました。小学5年生の時の友達に、「Aちゃんは話が理屈っぽいからいや!」と面と向かって言われ、大変ショックを受けた記憶があります。確かに自分が興味を持ったことに、何でもある一定の理屈をつけて夢中で説明する癖がありました。そのことから徐々に、自分と友人達の間になにか埋められない溝のようなものを、常に感じるようになりました。

  学校の友達と楽しく過ごしていても、常に自分はどこかずれている、という劣等感のようなものがいつもぬぐいきれないのです。私が夢中になって話すことに友人達はちっとも興味を示してくれない。それは宇宙のことや、4次元の世界と言った夢のような話がほとんどでした。一方私は眠っているときにも、やたらに夢を見るこどもでした。一時はあまりに夢が現実に近づいてしまい、夢ですませたと思っていることが、実際にはすんでいなくて、学校への提出物を忘れたりすることもよくありました。「おかしいなあ、確かに○○○したのになぁ。」と思っていると、それは夢の中でしたことなのでした。本当は1週間しかたっていないのに、2週間過ぎたと確信していることも良くありました。それは夢の中でも現実とほぼ同じように、学校や家で生活しているからでした。


 中学校は私にとってあまりに広い社会でした。私は再びはみ出し者にもどりました。廊下で部活の先輩とすれ違うときは、脇によけて最敬礼するなどというルールは、あまりにばかげたことに思えました。その他、学校の中でうまくやっていくコツをつかむことを、私はさっさと放棄してしまいました。とにかく年中眠かったこと以外、どうやって過ごしていたのかまったく覚えていないのです。父の仕事で、中学2年生の時に1年間海外で生活することになり、私の異端児路線はさらに決定づけられました。中学2年の4月から12月まで、私はアメリカの田舎の大学町で地元の中学校に通ったのです。この時経験したことはあまりに内容が豊富で、それだけで1冊本が書けるほどです。

 なかでも特に重要な変化は、自分の内側に別の声が突然聞こえるようになったことです。おそらく友人と英語で会話しているために、自分の独り言の日本語がことさら強調されたのでしょう。自分の中に話したり考えたりする自分を初めて見つけたときは、ものすごくビックリしたのを覚えています。「あれ?今、私は誰と話しているんだろう?」と自問自答しました。「ああ、そうか。こうやって自分自身と話せるんだ。」と気付いたときは、何者にも勝る親友を見つけたようで、心から嬉しかったものです。

 その後、両親とホテル暮らしをしながら、学校にも通わず真冬のヨーロッパを旅した、3ヶ月間の囚人のような生活によって、私はすっかり自分の心を閉ざして日本に帰ってきました。

 ちょうどいわゆる反抗期にあたり、大人の社会すべてを否定し、ルールやけじめや行儀の良さを否定し、それらにおとなしく従っているかつての同級生たち全部を、心の底で軽蔑しました。中学3年になった同級生達は、クラスに帰ってきた私を見て、たぶん頭が狂ったのだと思ったに違いありません。私は上下逆さまの眼鏡をかけ、ナップザックを背負い、奇声を発してたびたび授業を妨害する生徒でした。先生達は怒って授業を中断し、職員室に帰ってしまうこともたびたびでした。


 そのような中で、ピアノだけは何としてでも続けさせねば!という固い母の決意のもと、耳を引っぱられるようにして連れて行かれたのがT先生のところでした。もちろん私は、ピアノなんてくそくらえ!と思っていました。大人が価値を認めているモノすべてを否定していたからです。その日私は初めて伺うT先生のお宅にテニスボールを持って行き、玄関やら壁やら廊下やらあたり構わずボールをぶつけて、それが跳ね返ってくるのをキャッチするのに夢中でした。T先生とはろくに口もきいていないはずです。後日何度も、先生は私を弟子にするのは本当に断ろうと思ったとおっしゃっていました。すでにT先生の弟子だった他の小中学生達も、何だって先生はこんなヤツを弟子にするんだ!と激怒していたそうです。それでも私が弟子にしてもらえたのは、母のごり押し以外にも何か縁があったとしか言いようがありません。 (つづく)


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