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物理のかたりべちゃん


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第26話 白鳥をめぐって


October 28, 2005

第21話「白鳥を見に行く」で、山陰地方の中海まで白鳥を見に出かけてから、もう9ヶ月近くが経とうとしています。

この間ずっと、かたりべちゃんの気がかりは、「白鳥を見に行こう」と思った、その本当の理由がまだうまく人にも自分にも説明できない、というものでした。これは、やり残した宿題として頭の片隅のどこかにいつも張り付いたままです。そして、最近になって次のような考えにひっかかってしまっております。

仮説:
科学の目的がその「よりよい説明」となる、「真の理解」が存在する。

「だったらどうなんだ!」とどうか怒らないでくださいね。どうしてもここを通らないと先に進めないのです。

ところで「真の理解」とは何か?それをどう理解したらよいのでしょう?

推論1:「真の理解」とは所有されるモノとしてではなく、それに関わる新たな問題を限りなく提起し続けるコトとして存在する。(「終わらない性質」を持つ。)
定義:「見えない世界を説明(言語化)すること」と、「見えていると思っていることが、実は見えていなかったことを説明すること」ということは同じ行為であり、いずれも科学の目的である。

たとえば、「太陽は夕方になると西に沈む」と見えていたことが、実は地球の自転の結果であったこと、などは後者の代表ですね。この定義にしたがい、魂は目に見えないが、ゲノムはDNA分子という目に見える物質であるという違いを承知の上で次のように仮定します。

推論2: 次の2つの文章は、おなじ「問い」の別の表現である。

<肉体(肢体)は霊=魂を入れる箱である。>
<われわれは遺伝子(ゲノム)=情報の単なる乗り物である。>

余談ですが、なぜこのような推論をあえて差し挟むかというと、第23話「科学と文明」に対して、<しかし(秩序=生命の)滅びもまた(ゲノムに)プログラムされている>(カッコ内はかたりべちゃん)旨のコメントを受け取ったのですが、それに対してかたりべちゃんは、そのプログラムの存在を確信できるほどに、遺伝子あるいは生命に対する理解は未だ到達していない、と反論したいからなのです。

話を元に戻します。科学の方法によって得られた知識が、「真の理解」に基づくものであるかどうかの指標となるものが、それが「美しい」と感じられることかどうかだ、というのが9ヶ月前の「白鳥」をめぐる問いだったわけです。

定理:「美しい」と感じられることは、それが「真の理解」にもとづくよい説明であることの必要条件ではあるが、十分条件ではない。

証明:実際の白鳥を見よ。

これは、宿題の答えになっているでしょうか?さて、まずは推論1の証明が必要ですが、もちろんまだまだです。とりあえず、「ロマ書」より気になる部分を引用します。

<・・・われらはこの望みのゆえに救われているからです。見える望みは望みではありません。見えるものを、そのうえ何で望みましょう。我らに見えぬものを望む以上、忍耐して待つのです。同じように、霊もわれらの弱さをともに助けに来ます。何を祈ったらよいかわかりませんが、霊自身が口で言えぬうめきを持ってとりなされます。>

箱=乗り物としてあり、忍耐して待つこと。もちろんただぼーっとして待っているのではなくて、その折々に生じてくる「問い」を全力で解こうとすることが「待つこと」であるはずです。それが「真の理解」の最もよい説明になるのではないでしょうか。

「真の理解」にもとづくよい説明が具えているはずの「美しさ」は、第22話「心の探究1」で紹介したノーバート・ウィーナーによれば、

<美は、秩序と同様に、現実世界の多くの場所に現れるが、エントロピー増大の巨大な流れに抗する、局地的で一時的な戦いとしてしか現れない。>
という意味での「美」として現れているはず。その代表が、「生命」あるいは「白鳥」なのではないでしょうか。

しかしここでたいへん重要なことは、わたしたち自身は、その「白鳥」ではなく、よりにもよってと言うべきか、あの「サル」の子孫なのです!(この表現は、もちろんサルにはたいへん失礼です!)つまり「美」は往々にして、「その道を行ったら行き止まり」のサインにもなっているのではないでしょうか。

ちなみに、20世紀最大のエンターテイナーと言われる、クイーンのボーカル、フレディー・マーキュリーも、スイスのモントルーで白鳥を見るのが大好きだった、ということをつい最近になって知りました。彼が亡くなって、早いものでもう10年以上になります。

定義:
「真の理解」の存在と、その入れ物(箱)としての「知性」あるいは「美」、それらをまるまる懐疑する自由を持ち続けること。単に否定して捨ててしまうのではなく、忍耐して「問い」を発し続けること。それが科学の目的である。ひとつの説明が提起する、新たな「問い」を懐疑し続けることが、それが「真の理解」にもとづくことの一時的な保証となる。

「白鳥」をめぐる宿題は、やはり「終わらない性質」のもののようです。かたりべちゃんも忍耐して「待つ」のみです。



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