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Vol.39 人生ゲーム
今年のお正月、ネコ隊長はお年玉に人生ゲームがほしいと言うので、家族三人で中軽井沢駅前のおもちゃ屋まで買いに行きました。人生ゲームとは、ルーレットをまわしてやるすごろくのようなゲームです。私も子供の頃、親戚の人にプレゼントしてもらって遊んだことがあります。すごろくの内容はもちろんですが、ルーレットを回すことがもの珍しくて楽しかったものです。

 駅前でバスを降り、おもちゃ屋の目の前の信号で、待ちきれないネコ隊長は歩道で足踏みをしていたほどです。そして信号が青になったとたん、横断歩道に飛び出してしまいました。そのとき、右手の方から真っ黒い4WD車が走って来ました。ネコ隊長があわてて歩道に駆け戻ったのと、車が急ブレーキで横断歩道手前ぎりぎりのところで急停車するのが同時でした。私は悲鳴を上げ、運転していた若い女性を含めてその場にいた全員が真っ青になってお互いの顔を見合わせました。その後、車の女性は目礼して走りすぎましたが、わたしたちは気が動転してしまい、おもちゃ屋の店主にその顛末を訴えずにはいられませんでした。人生ゲームを買いに行って、人生棒に振るところでした!ネコ隊長は、ひたすらはずかしそうに顔を伏せていました。それは、あわてて飛び出したことをしかられたせいなのでしょうが、私には彼の横顔が、「こんなに偶然にかろうじて生き延びていてすみません。」と言っているように見えました。人生ゲームを買って帰るときには、気温は既に零度になっていました。今年は暖冬で、昼間は道路の氷が溶けていたので車はどうにか急停車できたのですが、これがもし凍っていたら、と考えると私は心臓の周りが痛くなるし、夫は足の力が抜けそうになったと言っていました。

車が急ブレーキをかけた瞬間大きな衝撃と共に感じたことは、うっかり手を滑らせて大切なグラスを床に落としてしまったときのような、「あっ!取り返しがつかない!!」という強い印象です。その後、次第に深い驚きと共に再確認したことは、今日と同じような明日があるという、わたしたちが普段当然のように抱いている前提(仮説)の不確かさです。唄に唱われているような「♪あしたがあるさ明日がある〜♪」は、わたしたちが通常無批判に受け入れている仮説ですが、これは正しいとはっきり言えるのでしょうか?


 新年早々そんな滑り出しでしたが、今月ネコ隊長は八才の誕生日を迎えました。ところで、自分が次の誕生日を迎えることは十中八九確かだと、現在健康な人であればほぼ全員が感じていると思います。しかし、それはなぜ「十中八九確か」なのでしょうか。その確率ははたしてどのように計算できるのでしょうか。

自分と同じような年齢や生活環境にある人をたくさん集めてきて、そのうち何人が来年の誕生日前に亡くなるか統計を取る。
この方法で、そのような統計を根拠にして80〜90%の確率で「この私」が来年の誕生日を迎えることは確からしいと言ってよいのでしょうか?統計を取るために集めてきた人が同じ条件であるという証明は、厳密にはもちろん不可能です。人間や人間を取り巻く環境は、とてもそのようなことを許さないくらいに複雑だからです。とすれば、そのような統計を取ることなどそもそも不可能ではないでしょうか?ある統計の信憑性を確認するために、さらに統計を取る必要が生じてしまい、無限にそのような証明のための証明を繰り返す必要が生じてしまうでしょう。
自分が次の誕生日を迎えるまでに経験するあらゆる状況を想定して、その中で生き残る確率を計算する。
その場合生き残る確率はゼロに限りなく近づくと考えられます。なぜなら、自分が次の誕生日までに経験し得る状態には無限の可能性が考えられ、そのため確率を計算するときの分母が無限大になるからです。例えて言えば、人生ゲームのルーレットには一から十までの数字しかありませんが、「実人生」のルーレットにはマイナスもあれば、小数・分数・無理数あるいは虚数まで、ありとあらゆる数を想定しなければならないようなものです。
自分の経験から統計を取る。
これは漠然としか説明できませんが、およそ次のようなことです。たとえば四十回目の誕生日を迎えた人であれば、四十一回目の誕生日を迎えることが出来る確からしさは、八才の人が九才の誕生日を迎える確からしさより大きいように思えます。実績がそれだけあるからです。それならば、八十才の老人が八十一回目の誕生日を迎える可能性はますます確からしいということになってしまいます。百才の人はさらにそれ以上・・・。しかしわたしたちの常識は、どちらかといえばそのようなことを否定しています。


 おそらくこのジレンマに対する、より満足のいく説明は次のようなものになるのではないかと私は考えています。わたしたちは一生の間、「私が次の誕生日を迎えることはない(明日はない♪)」という仮説を、実際に生き延びて次の誕生日を迎えることで反駁し続けるということです。実際に死んでしまったときには、この仮説が真であることのひとつの立証が得られます。しかし、そのような立証がいくつ積み重なっていくとしても、その仮説が真であるとは絶対に証明できないということを、すでにわたしたちの常識は理解しているのです。

「わたしたちには明日がない」という仮説に反論し続けるためにも、車の運転と火の元にはくれぐれも用心しようと誓う、今年の年明けです。



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