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Vol.41 葬儀の夢
 昭和55年に83歳で亡くなった冬さんは、私の母方の祖母である。新潟県三条市に代々伝わる大きな庄屋の長女として生まれた祖母は、当時には珍しく教師という職業を持つ女性だった。大正時代にすっかりこの庄屋の経済が傾いてしまってからは、冬さんは親代わりに弟たちの面倒をみた上、学費の援助までしていた。結婚後も働きながら6人の子供をそだてた。うち2人はごく幼い頃に病死したが、その悲しみの直後に三女として生まれた私の母は、病弱ないじめられっ子ながらともかくも成長することができた。その後、母は姉弟の中でただ一人教職に就いた。冬さんは、書や短歌に深く親しむ趣味人である一方で、まさに女傑と呼べる剛胆な性格の女性だったが、母はその気質を4人の姉弟の中で一番強く受け継いでいると私は思う。

 私は冬さんの孫の中では一番年少だった。私が生まれたとき、すでに彼女は70歳に近かった。祖父母の家は私の家からバスで20分程の場所にあった。そのあたりは旧国鉄の駅に近い静かな住宅地で、庭には大きな栗の木があった。その庭には花壇のほかちょっとした畑もあり、そこで野菜がそだてられていた。その家で祖父母は自分らの長女の家族と同居しており、まもなくその息子が結婚した後は、3人の曾孫を含めて4世代が同居する大家族となった。

 当時冬さんは自宅で私塾を開いていた。生徒たちが来る前に、きちっと黒のスーツに着替えるのが常だったそうだ。生徒の前では、ものすごく怖い先生だった。叱るときはびっくりするような大声でどなりつけた。私の母はそういうところを冬さんからそっくり受け継いでいた。大声で怒鳴られるのには、私は母のおかげですっかり慣れっこだったが、塾の生徒さんたちは冬さんの前でものすごく緊張して、一言も無駄口をたたかず真剣に勉強していたのを覚えている。もちろん孫や曾孫に対しても厳しく、世間によくあるやさしいおばあちゃんという像からはほど遠いものがあった。

 最初に冬さんが私塾を開いたのは、昭和10年頃の文京区小日向台町においてであった。日本ががますます軍国化していくなかで、新潟県の小学校長をしていた夫が突然職を解任され、山奥の小さな分校に転勤になるという事件が起きたのだ。当時の重苦しい世相を嫌っていた自由主義者の祖父が、世間から身を引いて隠棲したいと真剣に妻に漏らしていたのではないだろうか。女教師だった冬さんは、恩給を受ける資格を得るやいなや教師を辞め、もし万が一の場合は内職でもと考えたのか、ミシン1台のみ抱えて上野駅に単身降り立ったのだ。小日向台町で初めて開いた私塾が思いがけず繁盛し、まもなく夫や子供らを新潟から呼び寄せることができた。その1年後に私の母がたまたま、当時の塾生たちの中で特に人気の高いお茶大付属中学校に合格したのも、かなりの宣伝としてはたらいたように思う。母は合格したその日に、冬さんが自分の手を押し戴くようにして「ありがとう」と何度もお礼を言ったのを覚えているそうだ。

 世間嫌いで貴族趣味の祖父は、私の誕生祝いに自分が愛蔵していたゲーテ全集を贈ってくれるような、古典的ヒューマニストだった。彼は後年、睡眠薬の常用が原因で認知症を病み、冬さんの晩年はその介護に費やされた。同じ頃に長女の夫(つまり私の叔父)も、50代で突然脳梗塞で倒れ、何年も人工呼吸器をつけた寝たきりの状態が続き、ついに意識を取り戻さないままで亡くなった。祖父も叔父も、いずれも自宅で冬さんを中心に家族からの手厚い看護を亡くなるまで受けたのだ。そのころの冬さんは、まるで従軍看護婦のようにきびきびと働いていたのを覚えている。祖父が亡くなって3年後に私は高校に進学したが、その進学先のことで冬さんから大声で母に叱責の電話がかかってきたのは、彼女が亡くなるほんの1ヶ月前の春休み中のことだった。

 私は私立のミッション系の女子校に進学したのだが、これが冬さんにはどうにも我慢ならなかったらしい。当時はまだ公立学校の方が断然優秀で、私立に行くのはどちらかといえば落ちこぼれのような雰囲気があったので、電話は開口一番「なんでそんな学校に入れたんだ!」という激しい叱責の内容だった。母があれこれと進学理由を説明し、ようやく少しは納得してくれたのかどうかはわからないが、最後に「大学は東大に入れてほしい!」と御託宣を下されたと、母は苦笑していた。私は当時、いわゆる問題児という性質の子供で、単に中学校の担任教師が決めた進学先には行きたくないという理由だけでその女子校を進学先に選んだのだ。日頃話もろくにしたことのない祖母に、なんで高校や大学進学のことに口を出されるのだろう、めずらしいこともあるものだと、横で電話を聞いていて意外な感じがしたのを覚えている。

 その電話の後まもなく、私は冬さんの葬儀に出席する夢を見た。それほど愛着のある祖母ではないのに、夢で私は号泣しており、深い悲しみのまま目が覚めたため非常に印象の強い夢だった。後味が悪かったので母には話さず、通学の途中で友人にその内容を少し話しただけだった。その後私は学校のオリエンテーション合宿で伊豆へ行き、帰宅するなり父が洋服ダンスの前で喪服に着替えているのを見て、「おばあちゃん、死んだの?」と聞いたことを覚えている。心筋梗塞の発作が原因だった。発作後たった2時間で亡くなってしまったとのことだった。葬儀の時、本当に号泣していたのは私の母だった。

 わたしは、未来の予知や占いなどは信じない。なぜかというと、未来は常に開いており、あらかじめ決まっていることはひとつもないというのがわたしの信念だからだ。もし、この夢のことを冬さん自身に伝えていたら、結果は違っていたかもしれない。死につながる発作に先立って、軽い発作が何度かあったことが後日わかったのだ。祖母は軽い発作に違いなかったであろう脇腹の痛みを、雨戸を開けるときに筋を違えたせいだと錯覚し、湿布を貼ってごまかしていた。

 いずれにしてもこの夢のせいで、私はこれまでどちらかといえば疎遠だった祖母と、死後になって初めて心情的に一気に近づいたように思う。その後何度も夢に祖母は祖父と一緒に現れた。生前とはうってかわってやさしい表情をして。ちなみに最近、久しぶりに冬さんの夢をみたのは、たまたま冬さんの長女である叔母が亡くなる直前の去年の秋のことである。そんなとき私は、自分の人生の一部が、祖父母のやり残した宿題にあてられているような、そんな不思議な感覚を覚えるのだ。



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