最近鍋に凝っている。
ステンレスとアルミの多層構造の鍋で無水・無油料理をする。プリンや茶碗蒸しのような蒸し料理も楽しい。
縄文人はなぜあれほど鍋の装飾にこだわったのだろう?
鍋を知り尽くすことは命に直結している!
天高く馬肥ゆる秋、食欲の秋、それのみが理由というわけではありませんが、最近私は様々な鍋を使った料理実験に夢中になっています。きっかけは天ぷらです。先日、鍋底に1〜2cmほどの少量の油を使って揚げた人参の天ぷらを友人宅でごちそうになり、とてもおいしくて簡単なのですっかり驚いてしまったのです。私もかつて一度だけエビの天ぷらに挑戦したことがあります。そのとき出来上がったものは、エビと衣の直径がほぼ等しい、とても油ギッシュなベットリ味のエビ天で、すっかり辟易してしまった私は、それ以来二度と天ぷらをしたことはありません。それでも電気フライヤーを購入してからは、鳥の唐揚げやコロッケ、串揚げなどを主に夫がたまに料理します。とてもおいしいと子供は喜ぶのですが、私は500ccちかくもの油を一度に消費してしまうのがもったいなくて、自分から進んで揚げ物料理をすることはありませんでした。
これはうっかりしちゃおられんと、引っ越し祝いにいただいた様々なステンレス製の鍋を戸棚から引っ張りだしてみました。それらはドイツのFisslerという会社が作っている鍋で、デパートなどではとても高い値段がついているということは知っていました。ところが、私はこれまで頂いた4個の鍋のうち小さめの片手鍋1個のみ使い、後の3個はほとんど戸棚にしまいっぱなし。普段の料理はこの鍋とフライパンだけで済んでいました。ステンレスとアルミを多層構造にした鍋では、アメリカのVita
Craft社のものを以前に使ったことがありました。これはずっと昔、結婚祝いに頂いたシチュー鍋でしたが、一昨年の秋、我が家のキッチンをIHヒーターに付け替えてから、昔頂いたこの鍋が使えなくなってしまったのでした。私はまずFissler社のホームページを調べてみました。するとたくさんのレシピがあるではありませんか!すっかり驚いて念のためVita
Craft社のホームページも調べてみると、さらに美しい写真入りのレシピがたくさん参照できるのです。しかも使用法をじっくり読んでみると、調理する素材そのものの水分や油分を利用した、無水・無油料理というものこそが、これらの多層構造鍋たちのいちばんのウリだった!ということに気づきました。なんといいう宝の持ち腐れ!豚に真珠か、はたまた馬の耳に念仏か!?ちなみに最近ではVita
Craft社の多層鍋も、しっかりIH対応になっています。
とりあえず焼き物に挑戦です。本当に油をしかなくて大丈夫なのか、ハラハラしながら鳥のもも肉を焼いてみました。レシピにあった通りに、にじみだす余分な油をキッチンペーパーで拭き取りながら焼き、最後にふたをして数分焼くとあら不思議!本当においしいチキンソテーが出来ました。さすがにチキンソテーだけでは鍋も気の毒だと反省し、アジの干物(冷凍)を焼くことにしました。こちらはクッキングシートをしき、まず両面に焼き色をつけてから、酒を少々振りかけて蓋をして蒸し焼きにします。こちらもしっとりしてとても美味です!いつもはグリルで焼いていましたが、のけぞってパサパサになるのがやや気に入りませんでした。しかしこの鍋焼きアジの干物はまるで旅館の朝食に出てくるような焼き加減です!
ジャガイモや人参、ブロッコリーなどの野菜も、タイマーを何度も設定しなおしながら無水調理実験です。これまで野菜の下ごしらえは、もっぱら電子レンジを使っていましたが、加熱し過ぎてイモに歯が立たない!ということもしょっちゅうありました。ところが無水調理したジャガイモはホックホクで、そのまま食べてももちろんおいしい〜。さらにプリンも作ってみました。鍋底にグラニュー糖を敷いて加熱を始めると、グラニュー糖に含まれている水分だけでみるみる溶けて、うっとりするほど香ばしい甘い香りのカラメルが出来上がりました。鍋に直接水を入れて容器を入れて蒸す!という手軽さも簡単でマルです。どうもいわゆる蒸し器は底が深すぎます!私がプリンを作った多層鍋は、深さ5cm、直径21cmのフライパンなのですが、これがプリン型5個ちょうどのサイズなのでした。肝心の天ぷらはまだもう少し先に実験してみようと思います。どうも少量の油を使った天ぷらは、うかつにトライすると加熱しすぎて大事故につながりかねないという情報もあり、さらに研究を要するとの結論に達しました。それにカロリーも気になりますし・・・。
話は飛びますが、縄文人が残した様々な種類の鍋(縄文式土器)を、軽井沢のとなりの御代田町にある「浅間縄文ミュージアム」というところでたくさん見たことがあります。それらは御代田町にある遺跡で発掘されたものです。およそ4500年前に作られた中期縄文土器には、ものすごく肉厚で派手な装飾が施してあります。じっと眺めていても、どうしてここまで鍋の装飾にこだわったのかそのときの私にはよく理解できませんでした。しかし今回、自分で鍋の使用法をあれこれ調べたり実験したりするうちに、「鍋を極めることは、いのちを極めることだ!」という確信がおおげさにもわき上がってきたのです。食物を加熱調理して食べるのはホモ・サピエンスだけです。鍋の前でハラハラしながら料理実験をしていると、縄文人たちが料理にかけたさまざまな思いが、私のDNAにもしっかり刻み込まれているという不思議な気持ちになってくるのです。 |