江ノ電で鎌倉から3つめの長谷駅で降り、大仏を目指して歩いて行きます。さすがにここは人気観光スポットですから、たくさんの観光客で道はごった返していました。海外からの観光客も多く、白人の若いバック・パッカーや、このところ急増中のアジアからの旅行者もたくさん見受けられました。大仏前の信号わきで営業している屋台の団子屋でみたらし団子を1本買って食べていると、あっという間に行列ができていました。団子屋は奥にあるそば屋に遠慮して、「道をふさがないでくださいね〜」と小声で客に注意しています。ここにも小さないざこざの雰囲気を感じた私は、疲れのためやや神経過敏になっていたのかもしれません。。
団子ですこし人心地ついた私たちは大仏を見に行きました。咲き始めた桜は枝をピンク色に染めて、大仏の青銅色をさらに引き立てているようです。空気が乾いているため空は紺碧色です。ネコ隊長はさまざまな角度から大仏の表情を写真に撮っていました。大仏の背後にある小さな庭でトイレに行ったネコ隊長を待っていると、東洋系男性の観光客がガイドらしい男の人としきりに話をしています。耳を傾けるでもなしに聞いていると、二人ともかなり訛りの強い英語です。内容はわかりませんが、何ごとか男性がガイドにクレームを訴えているような雰囲気です。しかし、ガイドは別に怒るでもなく、下手に出るでもなく、無表情で何事かを言い返し続けているのです。
ネコ隊長がトイレから戻ったので、「あそこの桜の木の下で写真撮ってあげるよ。」と私は言い、ネコ隊長は喜んで木の下へ走って行きました。急に仏頂面になってしまったネコ隊長を何枚か撮っているとき、カメラを構えている私の背後に例の東洋人観光客がいたのですが、もちろんそこで起きたことに私は気づく由もありませんでした。
その後長谷寺へと向かう道すがら、ネコ隊長は何故かうつむきながらぶつぶつと、外国人観光客のマナーの悪さをあれこれ訴え始めました。はじめは、「またおなかがすいて機嫌が悪いのかな。」くらいにしか考えず、軽く聞き流していた私も、さすが彼の口調があまりに攻撃的なのでだんだん腹が立ってきました。さらに悪態をつき続けるネコ隊長についに私も堪忍袋の緒が切れ、「○○人だからあーだとか、△△人はこーだとか、そういう見方にはママは全然賛成できないね!だいたい外国人蔑視でしょ。そんなのはいつもネコ隊長が批判している『差別』の典型的なものじゃないの!」とムキになって言い返してしまいました。そのうち私も空腹と疲れでだんだん機嫌が悪くなり始め、長谷寺に着いたとたん、「ここのお参りはやめ!」と叫んで回れ右をして長谷駅へ戻る道をずんずん歩き出しました。駅の手前で小さなカフェがあるのに気づいた私は、ここで休憩しようと心に決め、「疲れたからここで休む!もしここのコーヒーがまずかったらママは激怒する!」と宣言して店に入りました。
こぢんまりとした店内は、ほとんど外国人観光客で一杯でした。アメリカ人の団体客がケーキを食べているのですが、お皿のケーキが不釣り合いなほど小さく見えます。比較的落ち着いた年配の人ばかりの団体だったので、少し安心して私たちはそのすぐ横の席に着きました。私もネコ隊長もメニューの「クレープセット」に目がとまりました。注文を取りに来た若い男性店員に、ネコ隊長の苦手な生クリームなしのクレープを注文できるか聞いてみました。店員のおにいさんは「確認してきます」と言ってキッチンにいったん戻り、しばらくして再び現れると、「ご希望のメープルシロップはあいにく切らせておりますが、イチゴジャムかブルーベリージャムと粉糖のでしたら、お作りすることができます。」と丁寧に伝えてくれました。その受け答えにすっかり感激した私たちは、注文を済ませてほっと安心しました。
「ママの友達にね、中国で日本人は戦争中にとてもひどいことをした!と会うたびに悲しそうに訴えてるひとがいるよ。その人は日本人だけど。」しばらくの沈黙のあと私が独り言のようにつぶやくと、ネコ隊長は、「それって、5歳くらいの時に弟のケーキを食べちゃって、80歳くらいになっても、あのときお兄ちゃんはひどいことをしたって、ずーっと怒ってる人といっしょだね。」と言うのです。私は「そうかなぁ?」と思いましたが、ネコ隊長のたとえがとても具体的なので感心してしまいました。「『そういうひとっていますよね〜』って、その人に言ってあげたらいいんだよ。」「なるほどね〜」と私。「たしかに、兄弟ならねぇ・・・。」
「あのさ、さっき大仏のところで東洋人のおじさんが、ボクが写真撮ってもらってる時、ママの後ろででこうやってたんだよ。」とネコ隊長は、何気なく中指を立て、それから親指を下にむける仕草をしてみせるのでした。それが相手を侮辱するジェスチャーだと言うことは、アメリカンフットボールファンのネコ隊長はよく知っているのです。私は突然の話で目を白黒させながら、「え〜?何でそんなことしたんだろう?」と聞くと、「ボクもわかんない。はじめは、なんかあの人が写真撮ろうと思ってるところに、ボクがじゃましちゃったからかな〜と思ってさ。でも、そこどいたんだけど、なんかそれでもまだ怒ってるんだよね。」と言い、「青い帽子かぶったおばさんと二人だったよ。その人もすごいいじわるそーな顔してた。」と無邪気に言うのです。
何が原因でその東洋人男性がそのようなことをしたのか、もう今となっては知りようがありませんが、子供相手にずいぶん大人げない態度を取る人もいるものだ、と私はあきれてしまいました。さっきからの悪態の原因はこれか、と私はようやく気づきました。そして、すべての差別や偏見の裏には、本来その人自身が克服しなければならない「恐怖心」があるのだ、と私は再確認しました。おそらくネコ隊長は、外国人に理由のわからない怒りを示されて、ととてもコワイ思いをしたのでしょう。ネコ隊長を励まそうと、さらに何パターンか男性が怒った理由をあれこれ推理してみせましたが、ネコ隊長はすっかりふっ切れた様子で、「もういいよ、考えるのやめよう。」と言って笑っていました。
まもなく注文したクレープが運ばれてきました。私はイチゴのクレープを頼んだのですが、まるでバレリーナのスカートのようにふわっとお皿に伏せてあるクレープは、香ばしい焼き加減と、うすさと、柔らかさが絶妙で、それはそれはおいしかったのです!さらにコーヒーはたいへんに美味で、何よりうれしいのは量がたっぷりだったことです。ネコ隊長も、イチゴジャムのクレープとホットミルクですっかり満足した様子。私は禅寺の庭にも劣らない、カフェのおいしいクレープセットのおかげで、ネコ隊長のとげとげした気分がすっかりもとにもどったので、空のお皿に合掌したいほど感謝していました。ちなみにこのカフェの名前は「カンパネラ」というのです。宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』を連想させます。この童話の中で何度も繰り返される「ほんとうの幸い」というフレーズが、私の心の中にも響き渡るようでした。
何度も江ノ電を乗り降りして硬券の入場券を買い集めながら、七里ヶ浜にあるホテルに着いたときは、もう夕暮れ間近でした。部屋の窓からは遠くに富士山と江ノ島を眺めることができました。ようやくゆっくり休める、と思ったのも束の間、「さあ、腰越駅の入場券買いにいくよ!」というネコ隊長の号令で、私たちはふたたび江ノ電の駅へ向かったのです。
ところで、この日ケンカのせいでお参りし損ねた長谷寺は、ネコ隊長の提案で翌朝早くに再訪することになりました。そうしてすっかり宿題を片付けた気分で、私たちは鎌倉を後にしました。「きっとまたすぐ鎌倉にこようね!」とネコ隊長はにこにこしながら言ってくれました。そしてその日の午後から、また連日7時間も塾に缶詰になる春期講習は、新学期の始まる直前までさらに4日間も続いたのでした。「まけるな〜、ネコ隊長!」重い鞄をしょって家を出るネコ隊長の背中を見送りながら、私は心から声援を贈っていました。(おわり)