前回のコラムをアップしてから気づいたのですが、実は前々回のコラムでも私は息子の携帯電話の使い方で激怒した顛末を書いています。そのことを私はすっかり忘れていました!よほど「携帯電話」というのが、自分のしゃくに障るのか、逆に言えば「琴線に触れる」のか、はたまた「地雷」なのか、とにかく何か私にとってのひとつのサインなのだな、とはうすうす予感していたのです。
それでも懲りずに、息子の成長期の脳の発達に、物質的に何かいたらない点があるのではないか?と考えて、『「うつ」は食べ物が原因だった!』(青春新書インテリジェンス)という本を熟読し、「なるほどそうか。脳内物質は毎日脳で作られるのね。それにはナイアシンとビタミンB群が大切なのね。」と頭でっかちに思い込み、さっそくビタミン剤をたくさん買い込んで来て、通常の2倍の量を毎日息子にも与え、自分でも飲みはじめました。
さてその後私が、「さあ〜これ安心!」とすっきり満足したかというと・・・??もちろんそんなことで心の底から安心するのは、いかに脳天気な私でもさすがに無理でした。
そんな折、たまたま友人と話していて、「人の欠点を改めるには自分の欠点を改めれば良い。」という言葉が心に響きました。私はなにか大きな忘れ物をしている感じがして、だんだん不安になってきました。さらに風邪をひいてしまい、その上くしゃみをした拍子にぎっくり腰になり、寝返りもうてない状況になってしまいました。一晩中痛さで眠れず脂汗をかきながらうなされていたとき、ようやく気づきました。
-----「私は息子をまるでモノのように操縦しようとしている!?」
こどもが小さかった頃は、命の危険がありましたから、しっかり手綱を握って四六時中目を離さずにいるということが必要なことも、もちろん多々ありました。その習慣がいつの間にかあたりまえになってしまい、ひとりの人間として独立しようとしている息子を、いつまでもそのようなコントロールのもとに置こうとすることが、かえって彼の反抗心を引き起こすのではないか?そもそも、あれこれの生活の場面で、こどもにしつけだの指導だのと口実をつけて、管理しようとしすぎているのではない?管理するだけならともかく、相手を一個の人格として尊重することを、そもそもまったく忘れていたかも?彼は人間であってモノではない!挙げ句の果てには相手をリモコンで操縦できるとまで勘違いしていた。そのリモコンのメタファーが「携帯電話」だったのでは?!
誓って言いますが、私はこれまで人間を(もちろんうさぎのポッチも!)モノとして扱ったり、ましてや思い通りに操作しよう、と計画したり、実行に移したりした記憶は金輪際ありません。なんといっても他人様ですから!よそ様ですから!あるいは反対に誰からもモノとして扱われた記憶もないし、不当に操作されたという経験もありません。ひとにだまされたとか踏みにじられたとか、運のよいことにこれまで一度もないと言い切れます。しょっちゅうおだてられてのせられてる、というのは別として。その私が何故よりにもよって、彼をモノ扱いとはいかないまでも、自分の思い通りに操縦しようなどと大それたことを、あたりまえのように考えるにいたってしまったのか?!
もんもんと痛い腰をさすりながら1ヶ月ほど考えたのですが、どうやらその始まりは息子の中学受験だったと思うのです。私は10年近く、ほぼ毎日詳しい日記をつけています。それで過去の日記のページをめくりながらたどってみた後で、ますますその確信を深めています。4年前息子は小学5年生でした。当時の日記に家族で旅行から夜遅く帰ってきて、次の日の体育の授業に着ていく長袖の体操着を洗濯し忘れていた!と慌てる私を、「ぼく暑がりだから、半袖でいいよ。」とかばう息子をみて、夫がやたらに感動していた、という記録があります。そうだった!そうだった!本当にそんなこともあったなぁ!その後もちろん息子も反抗期に突入していくのですが、一番変わったのは実は私の態度だったのです。
中学受験のため、とある大手進学塾の「入室テスト」というものを受けたとき、たしか5年生の1月だったのですが、テストの点数でクラスが決められて、とても事務的に「はい、お子さんは○○クラスです。」と言われたときに、心底ムラッとして、今後も2,3ヶ月に1回のテストの成績で、クラスがその都度変わります、という説明を当然のように聞いている、まわりの同じ境遇の母親たちに、理由のない怒りを感じたことを思い出します。当時は、その怒りが何に根ざしているのか、言葉では説明できなかったのですが、今になってようやく理解できました。私はそのように息子を点数で値踏みできる売り物のように扱われたことにこそ、怒りと違和感を感じたのです。
当時、中学受験のため進学塾に行くと自分から言い出した息子に、「進学塾なんかに行って、受験で燃え尽きてしまったらどうするの?」と心配して聞いてみたことがあります。彼はしばらく考えて、「燃え尽きたら、また燃えるものを中学に行って探せばいいんだよ。薪を集めなおしたらいいんだ。」と答えました。それでようやく私は納得して、彼の受験を応援しようと思ったのでした。
ところがです!いつの間にか世間一般の受験体勢にすっかり巻き込まれ、勉強をしてよい成績をとるから、その交換として私は一日に2回もがんばって弁当を作るのだとか、塾の学費をこんなに払っているのだから、その分一生懸命勉強するのが彼の義務だ、とか、息子との日常の中に、まるで市場でモノに価格をつけてあれこれ交渉するような態度が、無意識のうちに私の心にしみこんでいたのです。これは非常に恐ろしいことです。あなたが努力するから、私もその対価として応分の労力を払う。数値や一定の指標であらわされる価値を持つから、あなたは私にとって意味がある。もしそうでなければ、そうなるように努力しなさい。まるで大企業の労使交渉のような状況が、家庭の中に突然のそりと顔をあらわしたのです。
私はまた穴に落ちました。実は穴に落ちたのはこれが2回目です。今回はこの穴を抜け出すのに4年かかりました。つい先日息子に以上の経緯を話してみたら、「穴に落ちないと見えない空もあるよね。」と、さらっと言われました。
それにしても、人をモノとして扱おうとする自分の心が、同時にそれに抗議して自分自身こんなにも苦しむというのは、人の心が分割不可能な証拠です。そのような心の性質の不思議さに、ただただ驚嘆の目を開かされている、というのが、正直な今の気持ちです。