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物理のかたりべちゃん


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第11話 修業時代1

December 20, 2004

物理のかたりべちゃんの専門分野は「統計物理学」といいます。そしてこれまで研究の道具にしてきた理論は、「場の量子論」というものです。

これは最初、電磁場の量子論として1940年代にリチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガー、朝永振一郎(トモナガ・シンイチロウ)という3人の科学者がほぼ独立して磨き上げた理論です。この分野は現在「量子電磁力学」(Quantum electrodynamics略してQED)と呼ばれています。ちなみにファインマン、朝永先生共にたいへんすばらしいエッセイをたくさん残していますので、機会があったら是非読んでみることをお勧めします。上記の3人はこの分野の発展に寄与した功績により、1965年ノーベル物理学賞を受賞しました。

物質を小さく小さくしていくと、しまいには電子やクオークと呼ばれる素粒子があらわれます。さらにそれらの間の相互作用をくわしくしらべていくと、光子やグルーオンとよばれる粒子をお互いにやりとりすることで力が働いていることがわかります。このような「基本的な粒子」とそれらの間に働く「力」が従う方程式を「標準理論」と呼びます。量子電磁力学はこのような標準理論への第一歩でした。

例えば電子が1個じっとしている状況であれば、その振る舞いは「量子力学」という理論できちんと予測ができます。けれどももしこの電子が動き出して他の電子によって散乱された(蹴られた)とします。そのときこの電子は、もう一方の電子から光子と呼ばれる微粒子を受け取ることでその「軌道を変えた」と考えられます。とすると、この光子は何もないところから生まれて電子達の軌道を変え、そして死んでいったことになります。光子が生まれて死んでいく・・・

この状況を説明するためには、アインシュタインが考えた特殊相対性理論と呼ばれる、エネルギーと質量は同等だとする理論(有名なE=mc^2です)と、電気的な相互作用である電磁気力をうまくまとめて扱う必要があります。これを可能にしたのがQEDです。電子の気持ちが深く理解できていないと決して創り出せなかった理論ですね。

ところで旧ソ連にアブリコソフ、ジャロシンスキー、ゴリコフといった物理学者がいました。彼らは上記のような素粒子の世界を記述する「場の量子論」をつかって、たくさんの電子や準粒子と呼ばれる量子たちがたがいに影響しあって複雑な振る舞いをしている、「凝縮系物理」(condensed matter physics)の巨視的なふるまいを調べる方法を確立しました。「巨視的なふるまい」には、具体的には金属や半導体の電気的・磁気的性質などが含まれ、これらをしらべることが「凝縮系物理」の1つの目的なのです。彼らの『統計物理学における場の量子論の方法』という教科書を読む、というのが大学院生になったかたりべちゃんの最初の仕事でした。

一方1986年にセラミックである銅の酸化物が、マイナス200℃という「高温」で超伝導という性質をもつことが発見され、この発見によりベドノルツとミュラーの2人は1987年のノーベル物理学賞を受賞しました。この高温超伝導体の理論をつくることに理論物理学者は必死になりました。残念ながら2004年現在の時点でも高温超伝導の理論はまだできていません。かたりべちゃんは大学院で教授の指導のもと、このような高温超伝導体に特徴的に見られる「磁場中での大きな超伝導ゆらぎ」を調べるというテーマで研究を始めました。高温超伝導体を実際に応用する時は、病院のMRIや未来のリニア・モーターカーなどに代表されるように電磁場の影響下であることが多いので、これはとても大事なテーマだったのです。

このときかたりべちゃんたちが使ったモデル方程式は「ギンツブルグ・ランダウ方程式」といって、超伝導体の振る舞いを現象論的に記述するよい模型と考えられていました。この方程式は非線形でとてもそのままでは解くことができません。そこで「場の量子論」で用いられる「グリーン関数の摂動展開」という計算方法を使って、近似的に方程式の振る舞いを調べるというアプローチをとります。このアプローチの骨格を解説する教科書が上記のアブリコソフらの本です。ちなみにアブリコソフはギンツブルグ、レゲットらと共にその「超伝導と超流動の理論に関する先駆的貢献 」に対して2003年ノーベル物理学賞を受賞しています。

すこし細かい話になりますが、この計算の際ファインマン・ダイアグラムと呼ばれる、なにやら不思議な象形文字のような図形を、方程式の摂動展開の各オーダー(次数)について書き下していきます。図形の数はさまざまな近似(「くり込み群」の方法)を用いても次数が1つ上がるごとに、その次数の階乗にほぼ比例して増えていくため、手で計算できる次数はかなり限られます。例えば7次だとおよそ7!=5040個という具合に。そこで教授の提案により、この計算のアルゴリズムをプログラミングして、コンピューターに計算させるというのがかたりべちゃんのおもな仕事でした。当時はまだインテルのペンティアムチップが世に出る前で、一番速くてしかも研究室の机の上に置ける程度の大きさのコンピューターは、ワークステーションと呼ばれるものでした。ソニーの「NEWS」(1986年)やサン・マイクロシステムズ社の「SparcStation」(1988年)が出始めた頃です。ちなみにワークステーションの歴史についてはフリー百科事典『ウィキペディア』にもくわしい説明がありますので参照して下さい。かたりべちゃんとコンピューターとの長いお付き合いがその時に始まったのです。

実際にはアインシュタインも言っているように「自分が何をしているのかわかっているなら、それは研究とは言わないのではないかね?」という状況でしたが、かたりべちゃんは12年ほどギンツブルグ・ランダウ方程式と格闘を続けていました。その道筋のなかで、ストリング理論、量子重力、行列模型といった様々な理論やモデルとの関わりが出来ました。中でも一番うれしかったのは、自分のやっていることが標準理論でも未解決の問題である、「なぜあれこれの粒子はそのような質量を持つのか」という最大の謎に迫る、ヒッグス場の理論と密接な関係があると言うことに気付いた時でした。それはかたりべちゃんが大学の研究室を出て、少し畑の異なる原子核物理に関係する研究所にお世話になっている時に、そこの研究者のみなさんの前で自分の研究について講義(セミナー)をするための準備中でした。(つづく)

参考文献ほか
「セカンド・クリエーション---素粒子物理学を創った人々」(上・下)、R.クリーズ、C.マン共著、早川書房(1991)
「鏡の中の物理学」、朝永振一郎著、講談社(1976)
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(上・下)、R.P.ファインマン著、岩波書店(2000)
フリー百科事典『ウィキペディア』 http://ja.wikipedia.org/



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