第22話 心の探究1
March 3, 2005
かたりべちゃんがこれまでに何度も「謎だ!謎だ!」と言い続けてきたことを整理すると、その1つ目は<自然の書物がわたしたちに解読可能であること>、そして2つ目は<新しい物理的世界観による自然の説明を「理解すること」と「美しいと感じること」とが、少なくともかたりべちゃんにとっては同じ経験だ>という2点でした。
1つ目の<自然の書物がわたしたちに解読可能であること>について念のために付け加えれば、ギッブスの統計力学、さらには量子論の誕生によって、わたしたちは実在する宇宙そのものではなく、たまたまわたしたちが経験することができる「この」宇宙についての限られた観測に基づく問いを発するのみであるという状況にすでに移行してしまっているということを、まず確認する必要があります。現代物理学がよって立つ世界観は、確率的世界観に移行してしまっているということです。この宇宙の様々な現象についての「ノー・ハウ(know
how)」を知るという道筋に沿った目的でさえ、わたしたちの常識や日常的な言葉ではすでにその手段としては間尺に合わないため、物理学者達は数学のことばを使って研究をするということもすでに述べました。ここでもう一度確認しておくと、科学の真の目的は「ノー・ハウ(know
how)」ではなく、「ノー・ホワイ(know why)」であり、自然がそのようである「理由を説明すること」にあります。
ところで、わたしたちがその説明を「理解できる」とすれば、わたしたちの「心」のしくみはいったいどうなっているのだろうという疑問がおきます。常にとは言えませんが、しばしば「理解」は「感動」を伴い、多くの場合同時に同じ場所=心で起こることだからです。その例として、どんなにもっとももらしいことでもある特定の人から聞けば納得でき、別の特定の人から聞くと納得できないということがありますね。別の例をあげれば、中学校の社会の先生がキライだったため社会科がきらいになるということもこれに関係していると思います。「理解」は「心」と深く関係しています。上にあげた2つめの謎は、真理がわたしたちの心の喜び(感動)なのは何故なのか?と言い換えてもよいでしょう。
ところでかたりべちゃんは、これらの「謎」を多くの友人にぶつけたところ、みなさん何故それが謎なのかが謎だ、という表情でまったく理解してもらえないという事実がこの1ヶ月で解ってきました。
それは、「心」を何とかして科学的に掘るぞ〜!と意気込んで、人工知能やら計算理論やら自己啓発書まで、手に入るあらゆるテキストをかき集め悪戦苦闘していた最中に見た夢がきっかけです。真っ白いまん丸な繭が浮かんでいて、その上を鶴のような鳥が、一筋の糸を引きながらスローモーションのようにゆっくりと球の南極から北極に向けて飛んでいきます。繭は直径が鶴の大きさの5〜6倍くらい。それをみて夢の中のかたりべちゃんは「これは心だ!」と確信して目が覚めました。しかし目が覚めて何故それが心だと思ったのか自分自身説明できないのにさらにがっかりしてしまいました。
「心」を理解するにはそのモデルとなるものをつくってみるのも1つの良い方法だと思います。そこでノーバート・ウィーナー著『人間機械論第2版---人間の人間的な利用』という本を読みました。彼はアメリカの科学者(工学者)で、彼が創り出した「サイバネティックス」という理論は、言語学、社会と機械の情報通信、計算機やオートマタ、心理学や神経系,etc...といった、非常に広範囲の問題を対象とするものです。かたりべちゃんは、わたしたちの神経系とコンピューターのような機械での情報伝達を比較する議論に興味を持ちこの本を手に取りました。ところが単にそれにとどまらず、この本は実に深い「科学論」の本だということを発見しました。
ウィーナーによれば<科学は信仰なしには不可能>です。ここでの「信仰」とは特定の宗教的ドグマを受容することではもちろんありません。実は1つ目の謎「自然は理解可能である」がその信条のドグマだと言うのです。
<私は、科学は信仰なしには不可能だと言った。・・・自然は法則に従うものであるという信仰なしには、いかなる科学もあり得ない。どんな大量の実例も、自然は法則に従うということをけっして証明することはできない。>
そしてアインシュタインの言葉
<God may be subtle, but he isn't plain mean(神は思わせぶりだが悪意は持たない)>
を、彼の「信仰」表明だと述べます。
<自然は謎を解かれることに抵抗はするが、われわれと外界のコミュニケーションを妨害するために新しい解読不能な方法を編み出す才は持たない。>
かたりべちゃんにとって、心は真っ白な球形の繭だったのです。「自然」とそれを理解しうるわたしたちの「心」は同じ法則に基づいており、1つの繭です。ですから、自然の法則のよりよい説明(真理)が心にとって喜びなのは当然です。そして、その繭はトランプの「ババぬき」でかたりべちゃんがいつも右端のカードを引くからといって、こっそりババを右端に寄せるような腹黒さを少しも持たない。そのような悪意を持たない、とことん真っ白なイイヤツです。これは説明されるべきものではなく、科学者としてのかたりべちゃんの信念なのです。
<神の率直さに関するアインシュタインの金言はまさしく信仰の表明だと言わねばならない。科学は、人間が自由に信仰を持つことができる時にのみ繁栄することができる1つの生き方である。>
ここでウィーナーが言う「自由に信仰を持つ」とは、「懐疑の自由を持つ」と言い換えてよいでしょう。かたりべちゃんの信念は科学者でないみなさんには、謎としてぶつける類のものではなく、もし理解して頂けたらありがたく感謝すべきものです。それはこの宇宙は無秩序でなく秩序に従うコスモスである、という前提でもあります。
参考文献 N.ウィーナー著「人間機械論第2版」、みすず書房(1979)
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