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物理のかたりべちゃん


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第24話 科学アレルギー


June 16, 2005

 最近私は、「物理の小話」というコラム執筆のため、資料を調べたり、原稿を書き直したり、何人かの友人との雑談を通じて話の内容を詰めたりして過ごしています。その中で、化学や物理学など自然科学の教科書一般に対して、とてもいやな印象を持っている人が圧倒的多数だということにあらためて気づきました。そのような教科書に対して、「屈辱的」とさえ言えるような感情を覚えた経験を持つ人が、少なからずいることにとても驚きました。

 この傾向は特に、人に対してとても気を使う礼儀正しい人に顕著に見られるように感じます。おそらくそのような人は、相手が教科書でなくても、誰に対してもとりあえず礼儀正しくその人の話を聞き、我慢強く理解しようとするタイプの人です。そして、何とか我慢して聞いているのに、いつまでも全く訳が解らないことを言い続ける相手(教科書)に対し、とうとう堪忍袋の緒が切れるのでしょうか。その時、彼または彼女が感じている感情は「怒り」そのものです。それは、自分は我慢しているのに相手がそれを無視した、と判断することによって生じる「屈辱感」の裏返しのようにも見受けられます。特に、いわゆる知的スノッブ(*)と呼ばれる人で、化学アレルギーや物理学アレルギーを自認している人は、このような傾向を強く持っているようです。

 例えば海外旅行に行って、その国の言葉を知らないとしましょう。そして何か買い物をしようとした店の店員に延々とまくし立てられたとします。そのようなときに店員が自分に理解できるように話さないと言って怒る人はあまり多くないと思います。けれども同じ日本語なのに、あたり構わず関西弁でまくし立てる人に対し、何となく眉をひそめる東京弁文化圏に属する人々は多いように思います。余談ですが、私は中学3年生の時初めて秋田に旅行し、友人の親戚宅で一週間お世話になったことがあります。はじめ秋田弁がまるで外国語のように聞こえたのを思い出します。ところが一週間の滞在の終わり近く、突然すべての会話が解るようになった感動を今でもありありと感じることができます。秋田弁が解らなくなる理由が、すべて話の最後に一定の特徴を持つ語尾が付くことが原因だということに、その時初めて気付いたのです。

 私はこの頃から、授業中ろくに教師のいる前の方を向いていないくせに、突然自分の勝手な質問をぶしつけにするようなたいへん行儀の悪い生徒でした。そのような態度に怒り出すことなく、かえっておもしろがってさえくれたのは、当時理科の教師と国語の教師だけでした。英語の教師と数学の教師は、私と目を合わせることすら避けているように見えました。授業の予定通りの進行を妨害されることが心配だったのでしょう。クラスの中でそのような生徒は私を含めて他に悪ガキ2名。いずれも不良と呼ばれる男子生徒でした。その他の40名は少なくとも表面上は従順に授業を受けている生徒たちでした。この割合は、現在の小・中学校ではどのくらい変わっているのでしょう?ちなみに最近興味深かった事は、小学1年生の息子の授業参観に参加して、彼がやはり決して「従順派」ではないことに気付いたことです。親としてはさすがに冷や汗が出ましたが。

 話を最初に戻します。知的スノッブはさておき、一般に上からの命令に対しては従順で礼儀を重んじる心優しい人々が、教科書への悪感情から自然科学アレルギーになってしまうことを、私としてはとても残念なことだと思うのです。もちろん教科書だけが原因ではなく、授業を行う教師の振る舞いであるとか、試験の時の緊張感と挫折感であるとか、さまざまな要因が複合的に絡み合っていることは確かです。けれども特に、化学や物理学といった科目にアレルギーが起きやすく、堅苦しい印象を与えてしまう理由は何でしょうか?

 物理学の教科書で、ロシアの理論物理学者ランダウとリフシッツという人たちが書いた、『場の古典論』という本があります。その第1章「相対性原理」からひとつ抜粋してみましょう。(もちろんアレルギーの方は読み飛ばして構いません。)

<それゆえ、われわれは次のきわめて重要な結果に到達する: 事象間の世界間隔はすべての基準座標系において同じである。>
この文章の後半には、専門用語(事象・世界間隔・基準座標系)が3つあります。このような文章がこの本(B5版450頁)のおそらく半分近くをしめており、残りが数式といったところでしょうか。

 科学者は、日常生活で使われる言葉と区別され、意味が厳密に決められた用語を主に用います。そしてその用語間の関係は数式を使ってきっちりと明示されます。これが、科学が堅苦しく権威主義的な印象をあたえてしまう大きな原因になっています。けれども、科学の世界に実際に飛び込んでみると、権威に対して抵抗する反骨精神そのものが、科学の本質であることが解ります。これは、地球が太陽の周りを回るのだと主張して、宗教裁判で有罪判決を受けた、17世紀のガリレオ・ガリレイにまでさかのぼります。あるいはアインシュタインが、所属するプリンストン高等研究所の有力者たちの社交的「サロン」のお茶会に、決して出席しようとしなかったという逸話にも現れています。

 自然が与えてくれる汲めども尽きない感動に、科学を通じて何万回でも魂をふるわせる機会を持つ子供たちが、1人でも多くなって欲しいと私は願います。それに触れる者の魂をまさにふるわせるという意味で、科学は真の芸術と同じ性格を持っています。そのために今の子供たちへ私がアドバイスしたいことは次の3つです。

1.教科書の権威に対して従順になりすぎないこと。
2.自分が疑問に思ったり、興味を感じたりしたことにとことんこだわること。
3.教科書の言うことすべてに耳を貸さないこと。

 教科書に対してあえて失礼な態度をとることが、長い目で見れば科学の神髄に近づく一番の近道なのです。

(*)スノッブ:紳士・教養人を気どる俗物。エセ紳士。(大辞泉)



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