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物理のかたりべちゃん


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第25話 数学史


October 4, 2005

 「数学史」を小・中学生とそのお母さんたちを対象に語るという講演会の依頼を受けて、数学者でもない私が伝えられることは何だろう、と4週間ほど考えていた。

 私の目的は、身近な女性やこどもたちが科学とあまりにも断絶してしまっている現実を目の当たりにして、普段の生活の中から自然に湧き起こってくる「科学する心」を、それらの人々の中に鼓舞したい、大げさに言えば「科学する魂」を吹き込みたいということだ。そこでやはり「数学史」を語るにしても、人類最古の学問と言われている数学が、今日の現代数学に至る歴史そのものを語るのではなく、古代人の「科学する魂」、すなわち彼らの生死に直接関わっていた科学、そのひとつとしての「数学」の生い立ちを話してみようと思った。

 「科学する心」とは「何もないところから新たに創り出す心」だと私は考えている。その意味では、科学は芸術と非常に近い人間活動のひとつだ。一方、人間の歴史は「変化」との闘いそのものだ。人間が自然との格闘を続けてきた道程で、もし新たに何かを創り出せなければ自分たちが滅亡するしかないという、ぎりぎりの局面でそれらは生まれるものに違いない。そこで私の話の中心テーマは、400万年前にチンパンジーから分かれた人類の祖先が、およそ10万年前に道具を使い始め、1万年前に農耕を発明するまでに、「数詞」や「数字」がどのような必要性に駆られて発明されたか、さらに季節の変化を予測し、さまざまな農作業の計画を立てることと、いかに数学が深く関わってきたかを語ることに絞られた。

 講演会は75分間。参加者はこどもと大人あわせて30人ほどだった。私は大汗をかき、喉をからからにし、水筒の麦茶をがぶがぶ飲みながら、大声を張り上げて話し続けた。話の導入部分で、小学生や中学生が学校で勉強しているものには、人間の生死に関わる、真の学問という意味での「数学」はいっさいないと断言した。

「学校で勉強している君たちは、たとえてみれば直線の上だけが世界のすべてだと思いこんでいるアリのようなものです。けれどもこの世界には前と後ろの他にも、右も左も上も下もある。そのことはこどもの皆さんには気配として感じられるのみで、学校では、そういった右も左も上も下も含んだ、世界の真の姿をつかむための本当の学問はいっさい教えられません。」
すると、会場の特にお母様たちが一瞬サッと引く気配が感じられた。会場には私立の中学校受験を控えたお母様たちがほとんどだから無理もないと思う。学校ではわざと教えないのではなく、そんなものは本来誰からも教わることは出来ないのだ。人に教わることが出来るのはせいぜい「勉強の仕方」であって、人の生き死にに直接関わる数学や、本当の意味の「学」としての科学は、まず自分が問題を探さなければ決して学べない、という性格のものだからだ。

 今からおよそ250万年前、頑丈型猿人があらわれたのとほぼ同時にわたしたち人類の直接の祖先であるホモ属が現れる。頑丈型猿人はその後絶滅し、ホモ属は生き延びるのだが、ホモ属と頑丈型猿人の最大の違いは、前者は肉食をしたということだ。といっても、初期には狩りをするのではなく、もっぱら他の肉食動物が倒した動物の死肉や、骨髄を食べて生き延びたらしい。アフリカの森を出たホモ属が、その後サバンナや砂漠を越えて、地球上にあまねく拡がっていく図をじっと見ていると、このわたしたちの祖先は、人の獲物を横取りして恨みを買い、彼らの復讐を恐れてやむにやまれず苦しい逃亡の旅に出なければならなかったのではなかったか、とつくづく思われてくるのだ。

 講演の中盤は数学とはまったく関係なく、この頑丈型猿人とホモ属の話ばかりになってしまう。

「人類が生き延びるためには、今あるものを取り合って、少しでも多く横取りしたものが勝ちという方法がずっと主流です。これはアメリカがイラクでしていることでもありますね。けれども人間には実はもう一つ別の道が選べるのです。それは何もないところから新しく創り出すという方法、この場合は農耕の発明です。」

 農耕の発明に関して、私が大変印象的だったエピソードがある。それはこの夏、小学1年生の息子が、ミニトマトの種を播いて育てたときのことだ。5月の連休のころに芽を出した株を4株ほどプランターで育てていたのが、3株は夏の暑さで枯れてしまい、そのうちの1株だけが8月下旬に3個の真っ赤な実をつけたのだ。それを見た彼は目を皿のようにまん丸くして、「ほんとに出来たんだね〜!!」と叫んだ。チグリス・ユーフラテス川の流域で、シュメール人たちが今から何千年も前に、初めて農耕を発明した人に教えられるまま種を播き、それを収穫した際、きっと同じことを叫んだだろう!とそれを聞いた私は思っていた。「本当に出来たんだ!」と。こうして種を播き、家畜を飼い、同じ場所に定住し、耕し、収穫し、徐々に人が増え、喧嘩にならないように収穫物を保管し、分かち合い、星を調べ季節を知り、暦を作り、洪水を予測し、全員で耕地を整備し灌漑を行う。そのながい道筋で、現代の小学校や中学校で教わる算数や数学のほとんどが、古代人の生死をかけて発明されてきたのだ。シュメール人たちの後を継いだバビロニアの人々は、実に高度な数学と天文学をすでに発達させていた。

 話はさらに、ストーンヘンジでどのように天体観測がされていたかや、古代エジプトで神官たちがナイル川の水を神殿内の運河に引き込んで洪水の時期を予測していたこと、等へと飛ぶ。

「既にあるものを取り合うか、まったく新しく創り出すのか。これからの人類の歴史もその選択の繰り返しで進んでゆくでしょう。何もないところから『本当に出来たんだ!』と、創った本人が驚いて叫びながら、新しいものを創り出していく。科学の本質はそういったものです。こどもの皆さんにも、それを気配として感じてもらいたいのです。昔はそういうものがあることはすべて秘密にされていました。それを知っている人の権威を高めたかったからです。けれども今の地球が経験している変化は、そんな悠長なことを言っていられるようなのんびりしたものではないのです。ひとりでも多くの人が、そのような科学に参加してくれることを私は心から願っています。」
時間がおしてしまってうまく伝えられなかったと思うが、私はこのようにまとめて話を終えた。夕方から始まった会だというのに、1人も居眠りをしない小学2年生から中学生までの十数名のこどもたちの目が眩しい講演会だった。



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