第27話 科学の将来
January 28, 2006
科学の悪
最近、F.ダイソン著『科学の未来』を読みました。F.ダイソンは、かたりべちゃんの専門分野の先達のひとりなので、彼の著書は翻訳されているものは全て読んでいます。彼のすごいところは、科学の「悪」としての側面についてじつに徹底した認識を持っていることです。1997年ダイソンが74才の時に書かれたこの本に、なおさらそれは顕著に述べられています。
<一般原則として、科学は、金持ちのための玩具を提供するという結果をもたらすとき悪いほうにはたらき、貧しい人のための必需品を提供するという結果をもたらすときよいほうにはたらく。>
さらにダイソンは、恩師である数学者・ハーディーの言葉をも次のように引用しています。
<科学の発展が、存在する富の分配の不平等を悪化させることにつながるとき、あるいは人間の生活の破壊を、もっと直に助長するとき、科学は役に立つと言われる。>
現代物理学の状況
さて、現代物理学の状況はいったいどうなっているのでしょう。生成・消滅するたくさんの電子や光子といった微細な素粒子が、何故そのようにふるまうのか、その根幹となる理論を探求する大きな原動力となっているのは、現代物理学の2つの大きな土台である「一般相対性理論」と「量子力学」が二律背反する理論だという事実です。
これら2つの理論が共に必要となる現象は、実際に存在します。それらは初期の宇宙やブラックホールなどです。 そこでの物理を考察対象とすることで、両者が矛盾しない「量子重力理論」を研究し、完成させたいというのが、最近流行の純粋科学の一分野です。
純粋科学は、ずいぶんと普通の人々からかけ離れた世界に行ってしまった、と誰もが感じるのではないでしょうか。
最先端の科学理論の羅針盤としての「美」
ところで90年前に完成した、有名なアインシュタインの一般相対性理論は、物質による4次元の時空間のゆがみを記述するものです。このような研究では、純粋に頭の中でする思考実験によってしか理論を推し進められません。そこでは研究者の「美しさ」に対する先天的な感覚が、唯一の理論形成の羅針盤なのです。
そして経験的事実としては、そのような方向で完成された一般相対性理論は大変成功しています。例えば、カーナビゲーションなどでGPS(全地球測位システム)を利用するたびに、わたしたちはアインシュタインの理論の正しさを確認していることになるのです。
一方、物質が何故そうふるまうのかの原因を、ずっとさかのぼっていく「場の量子論」が追い求め続けているのは、重力を含んだ全ての力の統一理論です。その有力な候補のひとつと見なされている「スーパー・ストリング理論」も、「美しさ」を羅針盤として理論が発展させられてきています。この理論は現在実験による検証が不可能な領域を対象としていますから、理論を完成させるための道標は、ほとんどそれしか無いと言ってよいでしょう。この理論はまだおよそ完成とはほど遠い状況ですが、ここ20年近く、非常にたくさんの研究者が非常にたくさんの仕事を積み重ねています。
ところで、物理の研究者が言う「美しさ」とはいったい何でしょう。
おそらく多くの場合に、それは「対称性」や「デュアリティー」であるといえます。 対称性の美については、雪の結晶を思い出してみれば一目瞭然です。たとえ雪の結晶にはどれひとつとして同じ形は無くても、正6角形の持つ対称性と同じ対称性をどの結晶も持っているという事実を知れば、人はみなそこに深遠な美しさを感じます。
一方、デュアル(dual)を辞書(COD)で引いてみると、
<デュアル:(数学用語)項を入れ替えることで別の理論や方程式に関連づけられること。
(Mathematics) related to another theorem or expression
by the interchange of terms. >
と書いてあります。 物理学以外の例ですが、キリスト教でいう「愛」と、仏教の「慈悲」がデュアルであると言えば、人はその奥になにか深遠なものが横たわっている気配をうっすらと感じるでしょう。
歓喜もまた束縛である
それにしても実際に、自分が追いかけている理論が時たま見せてくれる「美しさ」は、本当に魂が震えるほどの感動を与えるのは事実なのです!
無我夢中で理論を追い求めているときは、研究者はまさに「美に魂を奪われている」のであり、他のことは全て忘れてしまうほど熱中しています。それが科学を推し進めてきたひとつの原動力であったことも事実です。しかしそのような状況は、自由な魂にとって「執着」であり「束縛」であるということは明らかです。
ダイソンはこのような状況を、次のように言い切っています。
<深遠・難解な分野で純粋科学がもたらす主たる社会的利益は、科学者と技術者のための福祉プログラムの役目を果たすことである。>
つまり、そのような段階では科学は科学者や技術者の「癒し」でしかない。 けれども、このような研究者の執着を単に満足させるだけの「福祉プログラム」は、もちろん科学の本道には成り得ません。
科学であれ宗教であれ、人類が手に入れたひとつの思想が、単に個人の楽しみや、一握りの金持ちや権力者の欲望追求のためにのみ資するという状況になったときにそれが本道をはずれているのは、日の目を見るより明らかだからです。
科学の将来
「科学の未来」を見通すダイソンほどの慧眼はかたりべちゃんにはありません。けれども、もう少し近い「科学の将来」に何が大切かは、科学者全員が常に真剣に考えていなければならないことです。純粋科学を単に研究者のみの福祉プログラム化しないために今後必要なのは、アインシュタイン以来多くの物理学者が心に抱いている、「対称性」や「デュアリティー」といった「美しさ」を、一般の人々にきちんと言葉で説明することで、その「美」が普遍性を持つことの裏付けが取れるかを確認することです。さらに、最先端の理論がもたらす、わたしたちが住むこの宇宙のありかたに対する何か新しい「さらによい説明」が、人類の最大多数の幸福安寧の追求に資するかどうかの十分な見極めが必要です。
かたりべちゃんを含め、多くの普通の人々は既に気づき始めています。
「中途半端な科学的知識が人間をますます不幸に追いやっている。」
「何が本物かきちんと確信を持って説明できる人が、真に智慧のある人だ。」
これをますます大きな声で、実際に口に出して言い続けることが、わたしたちにとって本当に大切なことです。
*フリーマン・ダイソン著、『科学の未来』、みすず書房(2006)
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