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物理のかたりべちゃん


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第28話 宇宙論と無限大


March 1, 2006


 広大無辺な無限の宇宙についてあれこれ思いをめぐらしていると、精神状態がやや壊れてきたりします。それがさらに高じると、2ヶ月も毎日めまいが止まらなくなったり、「宇宙の目的や生命の意味などそもそも何もないんだ!」と突然叫んで、ステンレス製の計量カップを発作的に床に投げつけたりなどしがちです。

 このようなときは、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の著者ダグラス・アダムスが言っているように、「パニクるな!(DON'T PANIC!)」という言葉をまず肝に銘じなければなりません。

 そもそも宇宙は真に無限のものであり、それをたかだか有限サイズしかない人間の大脳皮質で理解しようとすること自体が非合理的です。科学の神髄はまず「疑うこと」にあることは認めるとしても、そのスタイルに心底からしびれていても、宇宙の問題に関しては、ヨガ行者達の言うように大脳皮質を眠らせ、その息の根を止めて(?)、脳幹で感じ取る方が合理的なのかも知れません。

 こうまで徹底して際限のない無限の宇宙を、あるいは自然の森羅万象すべてを、有限サイズの情報量に埋め込もうとすれば、どこかに破綻あるいはゆがみが生じるのはもっともなことです。 あるいは膨張宇宙や、時間の非対称性(光子は光円錐を上方向にしか伝わらない)など、一見して騒がしい宇宙の姿が、このようなゆがみを暗示しているのかも知れませんし、もちろんそうでないかも知れません。

  おそらく、問いの数だけ答えがあるというのが宇宙の本質なのでしょう。わたしたちはサルの子孫としておよそ20万年間、天の川銀河の端っこに位置する、太陽系第3惑星上で、およそ700億回生まれて死んでいったという経験をそれぞれのDNAに刻み込んでいます。そのわたしたちから見た「宇宙」の姿と、ベテルギウス星(オリオン座の右肩の星)系のどこかの惑星に生まれた全く別の知能から見た「宇宙」は、どこからどこまでまったくの別物なのかも知れませんし、そうでないかも知れません。

 さらには、こちらの宇宙からはまったく感知されないだけで、わたしたちの鼻の先1cmのところにも別の宇宙があるのかも知れません。そこでは宇宙が収縮し続けており、時間は反対向きに進み、人は必ず死んだら生まれなければならず、「それは何故なのか?そのことに何か深い意味があるのか?」と考え続けたあげく、床から飛び上がってくるステンレス製の計量カップを「はっし!」と受け止めている人がいるのかも知れません。

 もちろん私はその人に、心からの同情と親愛を寄せています。



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