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物理のかたりべちゃん


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第30話 かたりべちゃん最終回・・・か?


October 3, 2006


 飛行機雲のにじみ出し

 さわやかな秋です。先日、ずいぶんと空が高いな〜とうっとりして上空を眺めていると、飛行機が一筋の真っ白な雲を引きながら飛んで行くのが見えました。上空にはかなり強い風が吹いているらしく、今出来たばかりの飛行機雲の一方の側から、まるでキノコが成長するようににょきにょきとにじみ出していく雲が何本もありました。その飛行機雲はあっという間に、ところどころかけた櫛のような形になり、それが何とも言えず美しく、私はしばらく見とれてしまいました。

 この2年間、私は常に「科学っていいよ〜!わくわくするよ〜!」と声を大にしてみんなに叫びたい衝動にとらわれていました。そして、「何がそんなに良いの?」と聞かれれば、「だって美しいから。」と答える。これでは当然説明にはなっていません。抽象的なものをさらに抽象的なもので説明しようとして、それがかなわないといういわば当たり前のことに、すったもんだを繰り返してきました。

 今年の夏の初めに、アーサー・ファイン著「シェイキーゲーム」という本を読んで、このすったもんだは当然の結果であって、科学の魅力というのは特別に解説が必要なことではない、と肩の力がようやく抜けるという貴重な体験をしました。自分が好きなもの、思い入れの深いものが、他のものより万人に認められる何らかの美徳を兼ね備えている、と勘違いすることは、特別珍しいことではありません。惚れてしまえばあばたもえくぼというわけです。私の場合はその相手がたまたま科学だったわけです。ちなみにアーサー・ファインは、アインシュタインの研究者で科学哲学者です。

 まぎれもなく存在する(というように自分には思われる)この世界に対する、ゆるぎのない、完璧な、ぴたりとあてはまる説明がどこかに存在して、それは万人の目から明らかに、完全に徹底的に満足ゆく程度に真理であることが理解できるという「信念」があります。それを哲学用語で「実在論」と呼ぶのですが、かたりべちゃんの背骨の中心に、いつの間にかこの信念がしみこんでいた。お箸を右手に持つのと同じくらい、気付かないうちにしみこんでいた。その信念を振り回してすったもんだしていたのですが、実はそれは科学とは本来関係ないんだよ〜とさらっと気付かせてくれたのがファインさんでした。彼は一言で言い切っています。

<確定した世界の確定した性質に到達することである”外界性”は、科学自身の中には見いだされない。>

 今となってみれば、そりゃそうだよね!とすんなり思えるのですが、そのためにこの2年間が必要だったわけです。以前からホメオパシーの人たちが量子力学をみょうに「解釈」しているのをとても「かゆく」感じていた私が、いつの間にか科学の魅力をまた別の「解釈」で正当化しようとしていたとは!人間の背骨の奥底に無意識にしみこんでいる先入観の怖さを思い知るような気がします。再びファインさんの言葉です。

<量子論が真である、あるいは近似的に真であると主張することに我々が一致した後、実在論者はさらに、そうだとすると世界はどのようになっているのかと問う。その答えが”量子論の解釈”である。これはモデル構造プラス対応(または”満足”)の規則であって、それによって量子論が真である、あるいは近似的に真であることになるのである。解釈へのこれらの制約はどこでも範疇性を課するほどには十分明確でないので、同型的でないモデルが好きなだけたくさんあり得る。真理の制約に満足した実在論者は、自分の必要や好みや趣味に従って、それらの中からより好みすることが出来る。ゲームの最後になって、皮肉なことに量子論的な実在論者がその敵である観念論者および構成主義者と手を結ぶのをわれわれは見る。>

 ファインさんは自身の実在論治療に、マッハの「感覚の分析」という文章がとてもよく効いたとおっしゃっていますが、私には上記の文章が即効性のある特効薬としてはたらきました。

仏師のおじいちゃんの話

 そんなある日何気なくNHK第一放送をラジオで聞いていたとき、87才になられる仏師の関頑亭さんがインタビューに答えてとても興味深い話をされていました。アナウンサーの女性が、「仏が木片の中に隠れているのを自分は掘り出すのだ、とおっしゃる仏師の方がいらっしゃいますが。」と質問したのに答え、頑亭さんはひとこと「ほっこりと自然に生まれてくるようでなくては(仏像作りは)いけない。」と語っていらしたのです。(もしかしたら「ほっこりと」ではなかったかも知れませんが、「ぽこっと」ではなかったように思います。)

 わたしはファインさんの次のような楽観的な科学に対する視点が、この頑亭さんの仏像作りに対する姿勢と共通するように感じて面白かったのです。彼は科学を解釈しようとするあらゆる悪戦苦闘から、距離をおくべきだということについて次のように述べています。

<しかし科学はそういうもの(”解釈”)を必要としない。その歴史と現在の慣行は、豊かで意味のある背景を成している。その背景の中でゴールや計画や目的の問題はひとりでにかつ局所的に現れる。>

 ここで、「ひとりでにかつ局所的に現れる」というところが私にとっての科学の魅力なのですが、そのことは今は置いておきます。これはあらゆる萌芽期の文化にあてはまる性質ではないかと私は思うのですが、頑亭先生の仏像作りにも共通していそうだ、ということを私はラジオを聞きながら感じたのです。

 ファインにとっての科学の魅力は、彼の科学に対する次のような信頼感と一体のものです。

<それでもなお、もっと控えめで地味ではあるが、科学的な確信を合理的な慣行で基礎づける---そしてその確信を科学のことばで理解する---ことを求める態度は、それ自体合理的な採用すべき態度と思われる。>

 科学は真理やその説明が対象とするような”外界性”に関して閉じていない。自己撞着な体系である。科学が発見してきた「これまでのところ正しい理論」を、「仮の真理」と彼は呼ぶのですが、私は「仮の」というイメージがマイナスの印象を持つため、「足場の真理」の方が良いと思います。大工さんが建物の工事の際にまず組み立てる、鉄パイプなどで作った足場のことです。

 真っ青な秋の空にまっすぐ描かれた飛行機雲から櫛型ににじみ出した雲は、何故そこからにじみ出すのか、にじみはどこまで伸びるのか、何も説明や解釈をつけることはできません。しかし、雲の自然発生的で非常に局所的なにじみ出しは、その視覚的な美とあいまって、私にとっての科学の魅力をあますところなく表現しているように感じられるのです。



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