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物理のかたりべちゃん


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第31話 心の探究2


March 7, 2007


 「石橋をたたいて渡る人」といえばとても慎重な人のことですが、足場をたたく人が頭でっかちの哲学者だったりすると、たたきすぎて足場もろとも破壊して転落事故を起こすということになりがちです。

 かたりべちゃんはけっして哲学者ではありませんが、科学の目的を追求するあまり、「・・・とは何か」とか、「・・・の本質とは?」などというお化けのような問いに、うっかり取り憑かれてしまったようです。それにしても失敗から学ぶというのはとても大切なことです。これからは「・・・とは何か」や、「・・・の本質」といった問いにぶつかったときは、「そっちは行き止まり」のサインだと思って用心することにします。

 スポーツ新聞の見出しのようなタイトルをつけた第30話「かたりべちゃん最終回・・・か?」で話題にしたのは「実在論」でした。そもそも事の起こりは、「科学の目的は真理の探究である」というかたりべちゃんの主題です。それじゃあ「真理」って一体何だ?ということになりますが、わたしたちは常識的に「真理とは事実(実在=リアル)との対応である」と考えています。そこまでは良かったのですが、そこで浮かんだのが「何故わたしたちの心は真理を理解できるのか。そのような心とは何か?」という問いが出てきたわけです。第22話「心の探究1」を書いたのはそのためでした。そこからはまさに危うい道にしばらく頭をつっこんだ格好になりました。「実在」の正当化をめぐってすったもんだの悪戦苦闘をした挙句、「実在論治療」ですっかり体(頭?)の調子を崩してしまい、同時に愛用のノートパソコンまで壊れるという大変な被害をこうむったのでした。

  できれば哲学者とはなるべくかかわりにならずに一生すませたいと思っていたのですが、こうなってはしかたがないと覚悟を決めました。そして正月からカール・ポパーの著書を読み始め、驚いたことにすっかりポパーさんと意気投合してしまい、こんなことならもっと早くに勉強するんだった〜とうれしい悲鳴をあげながら現在も読み続けているところです。

  ポパーの文章からです。

われわれはすべて、気づいているにせよいないにせよ、われわれの哲学を持っている。そして、われわれの哲学はたいそう価値のあるものではない。しかしわれわれの哲学はわれわれの行為や生活にしばしば壊滅的な衝撃を与える。ここから、われわれの哲学を批判によって改善していく試みが、ぜひ必要となる。
 

 本当にあやうく「壊滅的な衝撃」になりかけたのですが、幸いなことに壊れたノートパソコンは修理見積に出しただけで不思議にも自力回復し、体調も正月休みですっかり回復しました。やはり「実在」をあきらめなくてよかった!今は「実在論治療」なんてくそくらえ〜という爽快な気持ちでおります。

  かわりに改めて放棄したのは、なんでもかんでも実証あるいは正当化しようとする性懲りもない習慣です。実在を捕らえることをあきらめずに、単なる習性としての実証主義を、科学の態度でも目的でもないと理解することによって捨てることでした。「実在」そのものの存在は証明不可能です。だからといってそれを否定する必要はありません。

シェイクスピア喜劇の真の作者について、あるいは世界の構造について、絶対的確実性に達することができるということを否認する人たちは、そのことのゆえにシェイクスピアの喜劇の作者その人あるいは世界そのものが「幻想にすぎない」という説をなすものだとされるであろうか。
 

 科学本来の態度ではないにもかかわらず、無批判に受け入れられている「実証主義」は、まちがって振り回された場合に人間の知性そのものを否定さえしかねない壊滅的衝撃力を秘めています。しかし、いったん冷静になって本来の自分の問いを思い起こせば、それほど道を踏み外さずにすみます。

<科学の目的は真理へのより良き近似またはより大きな真理らしさという意味における真理である>
<知識の保障と正当化は私の問題ではない。そうではなくて、私の問題は知識の成長である。>
 「心の探求1」でかたりべちゃんは次のように書きました。
かたりべちゃんにとって、心は真っ白な球形の繭だったのです。「自然(世界)」とそれを理解しうるわたしたちの「心」は同じ法則に基づいており、1つの繭です。ですから、自然の法則のよりよい説明(真理)が心にとって喜びなのは当然です。

この喜びをかたりべちゃんは素直に喜びたいと思います!

○ 参考文献 カール・R・ポパー著、森 博訳『客観的知識―――進化論的アプローチ』



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