第33話 科学者分析
Dec. 3, 2007
今年の夏にリチャード・ドーキンス著『神は妄想である』を読んで、無神論と科学の関係に興味を持って以来3ヶ月以上あれこれ考え続け、すっかり消化器系統をやられてしまいました。ようやく最近になって、たまっていた宿便(精神の!)が大量に出たように思います。
ドーキンスは著名なイギリスの進化生物学者で、創造論者との理論的対決をみずからの天命とまで考えている(であろう)ひとです。普段でも情熱的な彼の語り口が、この本ではさらに極まり、それこそ「科学者らしからぬ」熱っぽさを帯びています。不可知論を超えた「急進的無神論者」とは、故ダグラス・アダムズの謂ですが、もちろんドーキンス自身も急進的無神論者をもって自任しています。
彼はこの本で、現在のアメリカ対イラク戦争に代表されるような原理主義的宗教の社会に及ぼす影響を詳しく指摘しながら、科学者として宗教を徹底的に糾弾しています。
<科学者として、私が原理主義的な宗教を敵視するのは、それが科学的な営為を積極的に堕落させるからである。それは私たちに、おまえは心変わりしてはいけない、知ることが可能な興味深い事柄を知ろうと思ってはいけないと教える。そして科学を破壊し、知力を減退させるのだ。>
無神論と科学をキーワードに、さらにフロイトを読みました。フロイトは20世紀初頭に精神分析学を創始した人で、やはり筋金入りの無神論者です。彼の「宗教性」とは何かについての定義は、とてもわかりやすいと思います。
<批評家たちはときに、宇宙と比較すると人間がいかに小さく、無力な存在であるかを実感した感情をあらわにする人々を「深く宗教的な人」と呼ぶことがある。しかし実はこうした無力さの感情は、宗教性の本質ではない。宗教性の本質となるのはこの感情の次の段階すなわち、この感情に反応し、これに抗って救いを求める気持ちなのである。だからその一歩を進まない人、広大な世界において人間が果たすごくわずかな役割を甘受する人は、語の本来の意味では、むしろ非宗教的な人なのである。>
さて、私も身近な家族もみな幸い典型的な日本人(?)と言ってよいかわかりませんが、無宗教です。一方で、求道者としての仏教者と私の中の科学者のイメージが、なぜか多分にオーバーラップしているのも事実です。10代の頃、老荘思想や古代印度哲学を読みふけり、禅宗に関心を持っていた影響かも知れません。ちなみに、仏教学者である増谷文雄氏には『佛教無神論の研究』という論文があります。その前書きで彼は次のように宣言しています。少し長いのですが引用します。
<今日の時代が、宗教に対して提出する、種々なる不信任案は、その中心を造物主としての神の思想においておる。すなわち、神の思想は、新興社会思想の立場から絶対の否認を受けているのみならず、哲学の立場からも否認せられ、科学の立場からも否認せられ、常識の立場からも否認せられておる。しかも、しづかに思いめぐらせば、神の否認は基督教その他の西洋の宗教の終わりであるが、おなじく神の否認はわが佛教のはじめであった。>
ここからは、仏教者増谷氏の気概がしんしんと伝わってきますね。おそらくドーキンスの著書に対し、「宗教を十把一絡げにするな!」といって抗議したい人は仏教者の中には大勢いるだろうと思われます。
ドーキンスの最大の関心事は、現代アメリカで特に肩身の狭い思いをしているであろう素朴な無神論者たちにエールを送ることであり、さらに人間がひそかに持つ、「だまされたい」という根深い本能につけ込んで、それを利用しようとする狡猾な一部勢力に対しての、合理主義者としての闘いなのだと思います。
有神論、無神論に関わらず、それぞれ世界に対してなんらかの枠をはめずには人間は対象を理解することは出来ません。ポパーが言っているように、たとえ科学者といえども何かをただ純粋に「観測」することは不可能です。彼はあらかじめ何らかの法則性に対しての予測をたててから「観測」するのであり、経験から純粋な帰納によって法則を得ることは不可能なのです。そもそも科学者が長期間やっかいな仕事に取り組むからには、その理論に対してかなりの熱意をはじめから抱いている必要があるのはあきらかです。
誰に頼まれたわけでもないのに、一日机の前に座って、本の山に埋もれながらうんうんうなり(時には膝をたたき)、脳にさらにシワを寄せている誰かさんも・・・。これは余談ですが(笑)。
<遊び心を知らない知識人は、決してオリジナルな知識を修めることが出来ない。崇拝する心を知らない知識人は、直感を実行可能な理論に移すために必要な作業を行うことが出来ない。>
これはフロイト伝で有名なピーター・ゲイの言葉です。
わたしたちの世界観や特定の理論に対する情熱とは、宗教的かあるいは科学的かに関わらず、もっとも初期の段階でその中に自己を同一視して愛するという「ナルシシズム」に他ならないのではないか。フロイトを読み過ぎたせいか、そんな風にも感じられます。
<宗教的欲求を持たない人間はいない。それは方向付けの枠と献身の対象を持ちたいという欲求である。>
このフロムの言葉には一瞬拒絶感を覚えますが、科学者もこの言葉をまるで無視しては通り抜けられないのではないかとも思います。しかし科学的理論として独り立ちするためには、その理論が失敗することや反駁されることを積極的に期待する、というある意味「知的葛藤」を経なければならないということが、宗教的理論とのもっとも大きな違いであることははっきり主張できます。
ところで、フロイトとドーキンスの共通点は、2人とも「戦闘的無神論者」であり科学者であるということの他に、それぞれが「文化による無意識の支配」を非常に重視あるいは敵視し、これに対して警鐘を鳴らすのが自分の任務であると確信しているところでもあります。フロイトは「性」、ドーキンスは「宗教」をめぐる局面での文化による支配を、徹底的に分析・究明しようとしています。そして両者ともに、幼児期になされる両親を代表とする身近なおとな達によるこどもへの「刷り込み」を、非常に有害なものとして糾弾しています。
両者ともに、抑圧された無意識の戦闘的代弁者であるというふうに私には感じられるのです。無意識を代弁してたたかう彼らは、フロイト→「精神分析理論」、ドーキンス→「進化論」に対して強迫的とも思えるような熱情を抱いているようです。まさに理論に対する「崇拝」です。どんな科学者も、困難な仕事を完成させるために、このような熱情を持たなければやっていけないことは十分承知の上、やはり科学者はそのような自分の「熱情」を冷静に「精神分析」して、特定の理論と自己を過大に同一化していないか、理論を自己愛の対象にすりかえていないか、よくよく注意する必要があるでしょう。
恋人であろうが自分のこどもであろうが、はじめは自分の分身のような部分のみを抽出して見るからこそ、共感や愛情の対象になり得るのですが、やがてその自己同一視が裏切られるときは必ずやってきます。それは相手が生命を持っている証拠でもあります。生命は本質的に伸びていくものであり、おとなしくそのなかにはまっていた枠から、どうしても逸脱してしまうことこそその本質だからです。
自分の期待を裏切られること、慣れ親しんだものとは異質なものを相手に見いだすこと、それによって恐れおののいて引き返してしまうのではなく、どこまでも自分を相手に沿わせ続けることで、いつのまにか自分も成長していることを楽しみに期待すること。この姿勢を人間だけを対象にするのではなく、世界観・宇宙観についての科学的理論にも応用したいものです。
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自分の目論見がはずれること、崇拝の対象に幻滅することを心待ちにしたり、精神をさらに成長させるものだとして喜ぶことはなかなか難しいことです。これは宗教者でも科学者でも同様でしょう。その理由を掘り下げて考えると、わたしたちの文化の持つ無意識に対する、上にあげた2つとは別の支配がうっすらと見えてきます。それはおそらく「知識」をめぐる文化でしょう。
一例を挙げれば、わたしたち人間がこれまで築きあげてきた文明では、知識を得ることがそのまま自分たちの勢力圏を拡大することであるという認識があります。人間は新しい知識をつぎつぎと得ることによって、自分たちの文明をここまで発展させ、ついには単一種による地球支配とさえいえるようなレベルにまで達しようとしている・・・。
けれども、それはそれほど当たり前のことと言いきれるのでしょうか?
わたしたちがこどもの頃に、おそらく学校教育などによる刷り込みにより、「知識」とはかくあるべしという刷り込みがされるのでしょう。無意識がそれに対して反対の声をあげないはずはありません。科学者の特定の理論や世界観に対する固執や、異なる意見に対する過剰な攻撃、さらには政治的活動への偏愛などは、そのような無意識の抑圧による神経症の一部ではないでしょうか?!科学者を精神分析することは、そのような抑圧に光を当てるよい方法でしょう。もちろんそれはフロイトがしたように、科学者自らによる「自己分析」であることが望ましいと思われます。
よりよい理論を心に抱くためには、科学者自身が自分の意識だけではなく無意識まで含めて、真に偏見や妄想にとらわれていない真っ白い布のような状態にあるか、自分の理論と「子離れ」できているかを厳しくチェックし続けることが重要です。
哲学者の手による「科学者分析」は、カール・ポパーがすでにその端緒を開いています。これを科学者の手で継承発展させることができれば、と強く願っています。
参考文献
1.リチャード・ドーキンス『神は妄想である』、早川書房(2007)
2.ジークムント・フロイト『幻想の未来/文化への不満』、光文社文庫(2007)
3.増谷文雄『佛教無神論の研究』、東方書院(1934)
4.ピーター・ゲイ『神なきユダヤ人---フロイト・無神論・精神分析の誕生』、みすず書房(1992)
5.ピーター・ゲイ『フロイト1,2』、みすず書房(1997)
6.カール・ポパー『推論と反駁』、法政大学出版局(1980)
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