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物理のかたりべちゃん


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第9話 「数学的構造」をめぐって


December 17, 2004

遠山先生の『代数的構造』は数学のひとつの分野「群論」のテキストですが、この本にある「たし算」についての次のような文章にも、底知れぬ美しさをかたりべちゃんは感じます。

<たとえば 2+3=5 という式をとっても、それは
2個のリンゴ+3個のリンゴ=5個のリンゴ
2個の石+3個の石=5個の石
二匹の犬+3匹の犬=5匹の犬
という無数の事実が同一の構造をもつこと、もしくはたがいに同型であることを把握した上で、それらに共通の形式として2+3=5が得られたのである。この同型性の認識が人間になかったら、数学という学問ははじめから生まれはしなかったであろう。>
ここで「同型」というのは要素どうしの関係を図にした時のパターンが同じになることだと考えて良いです。

そして集合論を巡っての次の文章にも・・・。

<ちなみにバートランド・ラッセルは『二匹のキジと2日とが同じ2であることに気付くまで長い年月が経った』といった。この言葉は深い意味を持っている。>
アメリカ・インディアンのある部族では、日数を数えるための数字と獲物を数えるための数字とが実際に異なるのだそうです。
<たしかに時間的に継起する第1日と第2日とは同時には存在しない。したがってそれを1日、2日と集合数によって数えることはできない。つまり時間的継起は空間的併存とは異なっている。その意味ではその部族の考え方は厳密であると言える。しかし、時間的継起をしいて空間的併存として考えるところに人間の思考の進歩があった。>
と述べています。「集合」というのはとても抽象的な数学的概念です。小学校に入ったとたん、「たろうくん」が「やまだくん」と呼ばれ、さらには「みなさん」と呼ばれることもあるというのは、子供にとって深い驚きに違いありません。

さて「数学的構造」とは、対象になる概念(要素)とそれらの間の関係のことをひっくるめたものです。数学の概念はあらかじめきっちり定義されており、さらにそれらを材料にしてどのような建物を建てるのか、その設計図に当たるものを「構造」と呼びます。近代数学までは材料の磨き上げに数学者は余念がありませんでした。それらの対象は、数であったり図形であったり、さらには関数であったりしました。けれども20世紀に入り、「数学的構造」それ自体がまさしく現代数学の主要な研究対象となったのです。これは数学が扱う材料がかならずしも実在と関係を持たなくてもよい、つまり「なんでもあり」という性格を持つことになるきっかけにもなります。そしてこのことの一番大きな影響は、数学の「公理」の意味が大きくかわったことだと遠山先生は次のように述べています。

<ユークリッドにおける公理は、もっとも単純で初歩的な事実を明確な命題のかたちに表現したものであった。しかしヒルベルトにおける公理はまったく1つの仮説であり、その真実性は実在と符合するか否かではなく、その公理系が内部矛盾を含むか否かによって検証さるべきものとなった。>
<公理は構造を規定する設計図のごときものとなった。したがってそれは1つの仮説の一種となったともいえよう。>

ユークリッドの『原論』13巻は、古代ギリシャ人がつくり出した「論証」という方法を集大成し、<それまでに得られた、主として幾何学の成果を、定義、公理、公準、定理、証明という整然たるかたちに展開した>ものです。紀元前300年頃に集大成されたこのユークリッド幾何学がその後2千年にもわたる「数学」の出発点だったのです。

そしてこのような数学のありようがはじめて飛躍を遂げたのは、17世紀のデカルト著、『方法序説』とその第三試論「幾何学」においてでした。遠山先生はこれを

<不動と静止の中世的数学から運動と変化の近代数学への大きな転換を意味していた。>
と述べています。もちろん物理学はこの近代数学の発展と深い関わりを持っています。

その後現代数学のエッセンスである「構造」という概念を提起したヒルベルトの『幾何学の基礎』は1899年という、まさに20世紀のはじまりとほぼ同時に現れました。実は「数学的構造」という言葉を正式に数学に導入したのは、ニコラ・ブルバキの『数学の建築術』という論文です。余談ですが、ニコラ・ブルバキは実在の人物ではありません。何人かの数学者集団のニックネームだったのです。メンバーの一人だった数学者アンドレ・ヴェイユの自伝には、1920年代〜40年代のフランスの教育・研究環境や、それを背景としたノルマリアン(エコール・ノーマルの卒業生)と呼ばれる、当時の知的エリートたちの個性的かつ自由な側面をうかがい知ることができてとても興味深いです。さらに余談ですがアンドレ・ヴェイユは有名な哲学者シモーヌ・ヴェイユの兄でもあります。

ブルバキ以来「公理」は1つの仮説のようなものとなり、一見「なんでもあり」の現代数学が始まったのです。しかし公理系が満たすべき最小限の必要条件はその内部整合性のみになってしまったものの、それは決して十分条件ではないと遠山先生は言います。そして「よい数学的構造」に関して次のように述べています。

<まずそれは、実在の中にあまねく内在するものでなければならない。・・・実在と何らの関わり合いを有しないものであったら、それは”よい数学的構造”とはいうことができないし、また彼以外の数学者はそのようなものを研究しないだろう。つまり”よい数学的構造”は偏在性を持たねばならない。>
<つぎに、それは単純かつ明瞭であって人間にとって考えやすいものでなければならない。それはよい建築物が美しくなければならないという審美性の条件に匹敵するものであろう。>
数学も「科学」という外的体験の一部分である以上、「よい質問を心に抱く」ことがとても重要であるという事実と無縁ではいられないのですね。

今回は話が長くなりすぎました〜。ところで、構造あるいはパターン認識の能力と人間の脳の進化は深く絡み合っています。次回は150万年で2倍になったという、人間の脳の特殊な進化に至る、生命進化論の意味についてお話します。ではごきげんよう!

参考文献
「代数的構造」、遠山啓著、日本評論社(1996) 
「アンドレ・ヴェイユ自伝」、アンドレ・ヴェイユ著、稲葉延子訳、シュプリンガー・フェアラーク東京(1994)
「ユークリッドの窓---平行線から超空間に至る幾何学の物語」、レナード・ムロディナウ著、青木薫訳、NHK出版(2003)



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