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物理のかたりべちゃん


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第17話 科学と理解3

January 21, 2005

前回の話をまとめると次のようになります。わたしたちの理解がより深ければ、仮想実在(VR)マシンに渡すプログラムがより正確になる。つまり科学の真の目的は「良い説明」を探すことであり、そのような意味での科学と物理的に可能な環境の提示(VRマシンそのもの)は同じ活動を指しています。たとえその内容が、「曲がった空間」のようにわたしたちの経験を超えているとしてもです。

けれどもここで気をつけなければならないことは、ここでの「物理的に可能」とは、単にわたしたちの宇宙で今までに知られている規則に限られてはいません。もしそうしてしまえば、まだ知られていない物理法則は本来的に説明不可能なものとして残されてしまうからです。これではあまりにわたしたちのまだよく知られてもいない脳の働きを断定的に見くびってしまうことになりますよね。

それからもう一点。VRマシンに渡せるプログラムが根拠にしているデータは、その定義からして次のようなものは含んでいません。1)薬物などによってわたしたちのものではない別物になってしまった脳が体験するもの。2)素数*)の因数分解など論理的に不可能な体験。3)無意識。以上の3つです。

さて、VRマシンに渡すプログラムがどれほど正確な予測規則をカバーしているかは、まさにわたしたちの脳にすでにそのハードウェアとソフトウェアが備わっている「理解すること」という働きにかかっています。

<より正確な予測規則は、よりよい説明的な理論を通してしか発見されない。したがって、物理的に可能な環境を正確に提示することは、その物理学を理解することにかかっている。>

その逆もまた真であることは既に述べました。モンテーニュの言う<事実はこの通りなのか?>という問いこそが科学本来の仕事なのです。そして科学それ自体も他のあらゆるわたしたちの想像力が行う活動と同様に、わたしたちの脳(意識)にとってはやはり外的な体験なのです。どのようにして?わたしたちが思索や推量を記号に記すことをとおしてです。このことからもやはりかたりべちゃんは「語らなければならない」と思うのです・・・。

科学の仕事は万人を納得させる「立派な建物」を造ることではなく、「魂の入った建物」を造ることなのです。科学の真の目的である「よい説明」とわたしたちが感じる「美しさ」の関係についてはまた後日の話題として保留しておきます。実はこのような問題を深く考えることが何よりもかたりべちゃんの精神が喜び満足することです。真剣に考えれば必ず、「不愉快さのあとに来る脳のブレーク・フリー状態!」が得られるからです。これがかたりべちゃんにとっての科学の醍醐味です。あるいは生きる目的とも言えます。

おそらくこの喜びを表現するのに、モンテーニュさんの次の文章が一番ぴったりと思われるので再び引用します。

<私は私のいかなる満足をも(私自身に対して)考察する。(泡立っている)上っ面をかすめるのではなく、底まで探り、不機嫌で気むずかしくなった理性をなだめて、それを受け入れさせる。私がいくらか平静な状態にあって、何かの快楽にくすぐられるときは、それを感覚にばかり掏り取らせておかないで、精神にも仲間入りをさせる。精神をそこに深入りさせるためではなく、楽しませるためである。そこで自分を失うためでなく、自分を見いださせるためである。そして精神に、幸せな状態にある自分の姿を眺めさせ、その幸福を考察させ、尊重させ、増幅させようとする。>

自分の精神の面倒を自分自身で見ることは本当に楽しい!ではごきげんよう!


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