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物理のかたりべちゃん


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第23話 文化と文明


March 14, 2005

さまざまな科学技術の発達によって人間がますます不幸になる、という現実からわたしたちは目をそらすことは出来ません。核兵器や生物化学兵器の開発はその代表的なものです。さらに1980年代以降急成長した生命科学に関わる技術によって、わたしたちの生命倫理観が根本から問い直される機会は日常茶飯事となり、けっして人ごとですまされないものとなっています。現代医学が可能にした生殖技術や延命治療、さらにはクローンなど、様々な医療技術が患者や家族の「幸福追求」という大義名分の元で実際に応用されることは、すでに珍しいことではなくなりつつあります。

わたしたち人間は最も素朴に、生きる目的とは幸福安寧の追求だと認めることが出来ます。しかしわたしたちは歴史の子です。それぞれが社会の中に生きており、その時代の大きな枠組みの中に縛られており、自分たち自身が創り出した様々な制約の下にあります。わたしたち自身の「幸福追求」のありかたも、その時代の技術・宗教・法律・経済といった絶えず変化する要因をふまえた上で、常に探求され続けなくてはなりません。

さて、第22話「心の探究1」で紹介した科学者ノーバート・ウィーナーは、当時台頭しつつあったコンピューターやオートマトン等の技術が持つ真の意義をふまえた上で、その著書『人間機械論』において彼自身の科学論や社会論をいろいろな角度から探求しています。彼の文章には、常に深海流のような重低音の響きがあり、それらは実に際だった独自の哲学に根ざしているように感じられます。そしてそれは、彼のルーツと考えられるユダヤ文化と深い関連を持つのではないか、とかたりべちゃんは直感的に感じました。そこでかたりべちゃんはユダヤ民族の歴史を、マックス・ディモント著『ユダヤ人の歴史』という本で読んで勉強しました。

歴史家であるマックス・ディモントは、文化と文明について次のように述べています。

<文明と文化という二つの概念には相違がある。文化は若い社会に多く見られ、基本的に先駆的なものである。文化は「原初の創造であり、新しい価値観であり、新しい知的・精神的な構築物であり、新しい科学、新しい法律、新しい道徳的規範のことである」。これに対し、文明は先駆けとなった文化の結晶である。それは非創造的なもので、古いものであり、生みの親の文化に寄生虫のようにたかっている。文明は、「堅固に統制された枠組みの中で、人間を徐々に標準化することを目指している。つまり、人間は同じように考え、同じように感じ、同じようにあくせく努力する烏合の衆となり、そこでは社会的な本能が創造的な個人を支配するのである」。>
そして彼は「文明」は必ず崩壊するという歴史的事実を指摘します。その上で<ユダヤ教は文化である>と述べて、それが未だ文明化しなかったことが数千年の長きにわたり滅びることなく生き延びてきた最も主要な要因であったと言います。

ところで、日本における「仏教文明」=「律令制」は最初中国から盛んに輸入され、大化の改新(645年)以来、日本における中央集権化を目指して進められてきました。しかしそれはすでに徹底的に滅んでいます。このことは先月島根を旅行した際、たまたま出雲国分寺跡に立ち寄り、大きな柱の跡だけが何もない草むらの中に残されている様を見て、かたりべちゃんの心につくづくと思い知らされたことでした。けれども、もちろん依然として「仏教文化」は滅んではいません。単に冠婚葬祭の儀式としてではなく、様々な文学や、わたしたちが常日頃無意識のうちに拠り所にしているあらゆる事象に実際に数多く見られることです。例えばいわゆる「無常観」、「諦観」、「不殺生」、「輪廻転生」などの思想です。ただし、仏教の最も古い聖典である各種阿含経やそれに先立つウパニシャッドの世界観をひもとけば、果たしてこの哲学が実際に未だかつて多くの人々によって正しく理解されているかどうかについて、もちろん疑問をさし挟まずにはいられないのですが。

17世紀に西欧で生まれた合理主義的世界観を受けつぎながら、わたしたちは「科学文明」の道をまっしぐらに突き進んでいるように思われます。科学が生まれた当初のガリレオやニュートン、さらにはアインシュタインといった天才達が切り開いてきた「科学文化」は、すでにそのような小数の先達の手を離れています。「科学文明」はその性格から、やはり少数の支配者による支配を脱して世界国家(地球文明)への移行を必然的に伴うと考えられます。そしてその崩壊はやはり免れないのでしょう。

さらにウィーナーの次の文章はすでに始まっている「科学文明」の崩壊を早くも見越しているかのようです。

<(科学者)当人の忠誠が絶対的である限り、何への忠誠であろうと、その人は科学の最高の飛翔には適さない。今日のように左右を問わずほとんどあらゆる国家権力が科学者に、偏見のない心より従順さを要求している時代には、科学がすでにいかに病んでいるか、科学の堕落と挫折が今後さらにどのようになるであろうかは、容易に理解できることである。>
ウィーナーがこの文章を書いていたのは東西冷戦のさなかであり、ベルリンの壁崩壊後の現代に至っては「国家権力」を、いわゆる「重商主義」への絶対の忠誠心とも読み替えられるのではないでしょうか。

いずれにしても、わたしたちは自分たちの「幸福」そのものの定義をあらたに心してとらえ直す必要がありそうです。地球規模で取り組むべき課題が山積する近い将来において、<たとえ科学文明は滅びようとも、科学文化を滅ぼしてはならない。>これは、かたりべちゃんがあえて選び取ろうとするヴィジョンなのです。

参考文献
ノーバート・ウィーナー著「人間機械論第二版」(1979)みすず書房
マックス・ディモント著「ユダヤ人の歴史」(1994)ミルトス


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