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物理のかたりべちゃん


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第29話 『脳と仮想』を読んで


May 10, 2006


  昨年、小林秀雄賞を受賞して評判になっている本です。興味を持って読みましたが、ひとりの脳科学者が科学(近代科学)に対して起こした離婚訴訟のため提出した陳述書、という印象をまず私は持ちました。

<一体、脳という物質に、なぜ心という不可思議なものが宿るのか、その第一原理を明らかにする努力を科学は怠ってきた。方法論的に歯が立たなかったのである。>
<科学万能のイデオロギーの下では、科学的問いに乗らないものは、存在しないことになる。だから、クオリアは、最近の「再発見」まで存在しないことになっていた。>

 <クオリア(感覚質)>というのは、脳の活動の一部としての意識や心の経験のうち、数量化できないものをさす脳科学用語です。例えば夕日を見たときに感じる、「赤い」という感覚そのものなどのように、数値にして測ることが本質的に出来ないもののことです。けれども筆者のいう、科学的問いに乗らないもの、あるいは方法論的に歯が立たないものを、<存在しない>と決めつけてきた「科学万能イデオロギー」とは、おそらく真の科学とはまったく無縁のものです。もし科学者自身がそんなことをしてきたのならば、目に見えない「原子の内部構造」や「電子」といったものでさえ、未だに理解されていないはずです。

<なぜ、単なる物質を、いくら複雑とはいえ、脳というシステムにくみ上げると、そこに「魂」が生じてしまうのか、とんと見当がつかない。見当がつかないということは、きっと、近代科学のやり方に、どこか根本的な勘違いがあると言うことを意味するのだろう。重大な錯誤があることを意味するのだろう。>

 どうしても腑に落ちないのは、「近代科学のやり方」を批判している本人が「脳科学者」と名乗っているところです。科学者が「科学のありかた」を批判することは、もちろんとても大切なことです。これは、例えば仏教者が仏教のありかたを批判することが大切なのと同じです。ただしこの場合に、仏陀が説いた法そのものを否定してしまっては無意味です。それなら仏教者であることをやめなさいということです。これではせっかく問題を提起してその屋根にのぼっても、自分ではしごをはずしてしまうことになります。

 科学者にとって重要なことは、むしろ科学者としてのあり方を常に自分に対して問い続けることです。第20話「悲観論を超える」でも述べましたが、心の問題を棚上げしてきたことが科学を社会から遠ざけてきた大きな理由のひとつだという反省は、現代の科学者にとって緊急に必要なことです。茂木健一郎氏の著作が、広く一般大衆から支持を受けていることが、そのことを証明しています。だからこそ、科学者にとって今最も大切なことは、心や意識について自らがまったく無知であることを、一般の人たちに対してことさら大声で伝えることです。科学の方法論をうんぬんして煙にまくのではなく、わからないものはわからないとありのまま正直に伝えることです。

 おそらく筆者は、心や意識の研究の上でもっとも重要な概念であるクオリアを、方法論的に歯が立たないといって棚上げしてしまったこれまでの脳科学に対して怒りを感じるあまり、科学の本質である「懐疑の自由」、すなわち絶対的な理論や説明というものは一切なく、あらゆる先入観は懐疑の対象になること、さらに自分の無知を認めることこそが科学の出発点であるということを忘れてしまったのでしょう。

 著者は、「科学」の数量化・抽象化という基本的手法そのものを、そもそも文学者や詩人が探求の対象とする分野に立って批判しているのです。それは、一回限りで再現性のないことが最重要となる分野です。例えば、肉親の死に代表されるような個人の苦悩や、眠っているときに見る夢のような主観的な経験。それらは自分だけにしか意味を持たない、一回限りの再現性のない出来事です。文学者や詩人の天分は、「一回かぎり」で「唯一」のものを「独自」の立場に立って探求することです。そのような手法がうまくいくことによって、「人間性」と呼ばれるような何か普遍的なものが得られれば、それは人類の財産になるでしょう。主観的な経験をできるかぎり深く掘り下げることにより、「人間性」の未だ知られていない面を発見することが、「文学」の目的だと私は認識しています。

 一方科学が扱う分野は、数量化の出来ることがら、つまり再現性があって、抽象化が出来ることに限られます。その手法が未だ使えない分野は、この宇宙の森羅万象のほとんど全てです。宇宙は真に無限です。「脳」こそが有限なものです。科学は金食い虫の大どら息子ですが、まだ2才くらいのよちよち歩きのこども同然です。もしかしたら人類の知能自体がまだよちよち歩きで、科学はまだハイハイしかできない赤ん坊かも知れませんが。

 科学はコイン(問い)を入れれば答えが出てくるジュースの自動販売機のようなものではありません。自分が無知であることを前提とした上で進んでいく、過程そのものなのです。「懐疑の自由」や「不確かであることの自由」を残しておくことこそ、科学者の責任であると述べたリチャード・ファインマンの言葉を、もう一度わたしたち科学者は思い出す必要があります。

 * 茂木健一郎著 『脳と仮想』 新潮社(2004)



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