第20話 悲観論を超える
February 4, 2005
第18話「科学の猿真似」で<科学者が科学を社会と無縁なものにしてしまっている>というリチャード・ファインマンの言葉を紹介しました。今日はこのような事態を生み出す原因の1つとかたりべちゃんには思われる、多くの科学者自身の意識の底流にもある「悲観論」について考えてみたいと思います。
科学がもたらしてくれる世界の新しい見方や知識は<しびれるくらい>の美しさをかたりべちゃんの心に感じさせます。この感動を友人たちと共有したいと思い、折に触れて語り合ったり文章を書いたりすることが何よりもかたりべちゃんは大好きです。ところが一方でいつの頃からか、疲れたりうまくいかないことに突き当たったりした時に、かたりべちゃんの心の奥底からわき上がってくる悲観的な考えがあったことも事実です。それは一言で言うと「バラバラな孤独感(LIVING
ON MY OWN*)」であり、あるいは「真の説明に対しての自信喪失感」です。わたしたちはとどのつまり自分の脳が提示する、どこかゆがんだ個別の仮想実在(バーチャル・リアリティー)しか体験することは出来ず、そこから得た様々な出力をいくら他人に説明しようとしても、他人はその人自身の脳が提示する別の仮想実在を体験しているのであって、その人の体験と自分の体験は決して同じものではない。ベストセラーの養老孟司著『バカの壁』の中心的な内容もこのようなものだったと思います。
実はそうではない!と言うのが第3話「ブレイク・フリー」で紹介した物理学者デイヴィッド・ドイッチュ著「Fabric
of Reality」**の中心的な主題で、この本を読むことでかたりべちゃんは初めて自分自身もうっかり陥っていた盲目的な悲観論の原因を理解し、それを乗り越えることが出来ました。彼はこのためには、現代科学の最も重要な4本の柱、「量子論」「計算理論」「進化論」「科学的認識論」のそれぞれの分野で得られている、現在主流な理論とその説明を真剣に深くとらえることが何よりも必要だと訴えています。彼の主張は仮想実在について論じた第6章「計算の普遍性と限界」の中の次の文章に示されています。
<・・・脳の提示は実際すべて不正確である。(中略)だが、こうした不正確で人を惑わす体験は、科学的推論に反対する論拠にはならない。それどころか、こうした欠陥こそ科学的推論の出発点なのである。>
科学的推論、すなわち科学的研究の方法は本来的によいミーム(自己複製子)のはずです。つまり、多くの人の脳あるいは心に自分自身のコピーを創る力を本来的に強く持っている。科学的世界観がそれを見るものの心に「美」を感じさせると言うことにその証拠があるとかたりべちゃんは思います。科学は、いったんわたしたちの脳に先入観や偏見なしにしっかりと根付けば、<実際にやってみること>を通じて間違いを自己修正しながら育つことが可能であり、多くの人の脳に大きな感染力を持っているはずのものです。ところがそれがそうであることを妨げている大きな原因は、科学がわたしたちの心や意識の問題と無縁であるふりをしていることにあるのです。
実は決して科学本来の態度ではないそのような「冷たいふり」は、科学を単に結果を出すための「道具」と考える態度から始まりました。20世紀の初頭、量子論がまだ生まれたての頃、それを創った物理学者たちでさえその理論がもたらすまったく新しい世界観の説明を理解することは出来ませんでした。けれどもその理論はとても強力で、入力を与えさえすれば必ず正確な、実験と合う出力を得ることが出来ました。そこで彼らはとりあえず理論の出力のみを問題にすることにして、ある入力が「どのようにして」そのような出力を生むのかという説明をいったんお預けにしたのです。その態度は今日にわたってもなお今だに続いています。けれどももちろんこのような態度からは心や意識についての説明はけっして出てきません。そこでは「どのようにして」が最も重要な問題だからです。
第5話「風雅と自然科学の精神」で紹介した寺田寅彦博士は、このような科学の「道具主義」とはきっぱり無縁の人でした。第10話「生命の理論」で紹介した、<30億のDNAのデジタルな川>というブレイク・フリーな見方をもたらしてくれたリチャード・ドーキンス博士もそうです。ただし彼は、説明力においてすでにまったくまともでないライバル達との激しい論争に忙しすぎて気の毒です。一方で残念なことに、科学的知識がもたらす驚異を自身の総体的な世界観と統一しようとしない科学者が今だにたくさんいるのは事実です。頭のこっち半分では科学をしながら、反対側では別の考えをする、というように頭をバラバラに分けて仕事をしている科学者達を痛烈に批判したのは、第19話「自由な精神の詩」で紹介したリチャード・ファインマンです。わたしたち自身の世界観はまさに、この私、つまり自分の意識や心の総体です。ファインマンは少なくとも常にそういった問題について自分がまったく無知であることを大声で言いふらす努力をしていました。もし科学者が「実は世界はこうなっているのだが、そのことで驚いたり、あなたの心とその事実はどう関連しているのかなどと考えてはいけないよ。」と言い続ければ、わたしたちは「それではあまりに冷たい!そんなせっしょうな!」と拒否するのが当然です。
<「私はここにしがみつく。他のことはできない。」というのが、彼ら(バラバラな科学者)の究極の対応となる。これは彼らを批判者に対して、前にもまして狭量にするだけであり、さらに進んだ基本的な説明の見通しについて、悲観論を生み出す傾向がある。>
ドイッチュ博士のこの言葉(かっこ内はかたりべちゃん)によって、かたりべちゃんはしっかりと自分の悲観論を見つめ直すことが出来ました。
「科学は本来的によいミームである」、とはこの悲観論に真っ向から対立するかたりべちゃんの楽観的な世界観です。それは科学が<人間の心を物理的世界の中心に置き、説明と理解を人間の目的の中心におく>ことによって初めて達成されるはずです。科学に「魂を吹き込む」のです。科学の「冷たい感じ」は科学者とそのまわりの人たちがコミュニケーションにより協力しあうことで必ず乗り越えられます。かたりべちゃんは、科学の方法によってわたしたちの心や意識に真っ正面から切り込んでいくための「問い」を発することが出来ると感じてワクワクしています!それが悲観論を本当の意味で乗り越えるために今こそ必要なのです。
参考文献ほか
*Queen+ グレイテスト・ヒッツIII 、クイーン
**「世界の究極理論は存在するか---多宇宙理論から見た生命、進化、時間」、ディヴィッド・ドイッチュ、林一訳、朝日新聞社(1999)
「バカの壁」養老孟司著、新潮新書(2003)
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