第5話 風雅と自然科学の精神
December 14, 2004
「俳諧の本質的概論」という文章で寅彦先生は、芭蕉を<純日本人であった>と指摘しています。つまり、古事記、日本書紀、万葉以来の詩に現れ、さらに仏教や儒教などの外来の哲学を受け入れて変化していった日本人固有の自然観を集大成したのが焦門俳諧だったということです。
<焦門俳諧の完成期における作品の中には神儒仏はもちろん、老荘に至るまでのあらゆる思想がことごとく融合して一団となっているように見える。そうして、儒家は儒になずみ仏徒は仏にこだわっている間に、門外の俳人たちはこれらのどれにもすがりつかないでしかもあらゆるものを取り込み消化してそのエッセンスを固有日本人の財産にしてしまったように見える。>
そして彼は<俳諧は我が国の文化の諸相を貫く風雅の精神の発現の一相である>と言い抜きます。
<風雅は自我を去ることによって得らるる心の自由であり、万象の正しい認識である>
<いわゆる格物致知(*)の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることを進めたものとも見られるのである。この点で風雅の精神は一面においてはまた自然科学の精神にも通うところがあると言わなければならない。>
かたりべちゃんには「風雅=ブレイク・フリー」ときこえます。心の拘束されない自由な状態で、理性=知性に従い見えない世界に素直にアクセスして良い質問を心に抱くこと。さらにここから俳諧の魂である「さび・しおり」が出てきます。
<さび、しおり、おもかげ、余情等種々な符号で現わされたものはすべて対象の表層における識閾よりも以下に潜在する真実の相貌であって、しかも、それは散文的な言葉では言い現すことができなくて本当の純粋の意味での詩によってのみ現されうるものである。>
そして寅彦先生の芭蕉論です。
<芭蕉は・・・枯れ枝から古池へと自然の懐に物の本情をもとめた結果、不易なる真の本体は潜在的なるものであってこれを表現すべき唯一の物は流行する象徴による暗示の芸術であるということを悟ったかのように見える。>
俳諧の「不易流行」と、「(潜在する)見えない世界」そのものが物理学の研究対象だということが、実はパラレルな関係にあることを寅彦先生は暗示していますね。
もう一つ彼の「科学者とあたま」という文章から。
<科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でも持っていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりを持っていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思い上がるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。>
科学的認識の方法も風雅の一つの相であるとするこの言葉はかたりべちゃんの座右の銘です。「科学」を真の意味での「学」とするためには、これを科学者のみの独占物にしてはいけない。そのためにかたりべちゃんはやはり「語らねばならない」と思うのです。
次回はさらに「科学と文学」という文章をめぐって、科学の目的について少しお話しします。ではごきげんよう!
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