その夜はタブラコンサートで感動し、ビールを飲みながらホテルの部屋でさらにねこもんとあれこれ話をする。ケネディ大統領記念館で、公民権運動の時に街頭でデモをする黒人が白人警官に警棒でめった打ちにされるニュースの映像が、かなり控えめながら展示に使われていたのを思い出す。その話をねこもんにする。「まあ、そうは言っても、そんなに残酷な映像は見せてないんだけどね。」と言うと、「そりゃ、ちっちゃい子も見にくるんだからね。」と理解を示しつつ、「でも僕は、広島の原爆記念館みたいに、残酷でもそのまま見せるべきだと思うけどね。」と言う。それで私も原爆記念館に初めて行った時、貧血がおきたことを思い出した。あの時は、「人間って、こんな暴力が振るえるんだ!」と心底ふるえたのだった。
でも自分たちが過去に悪いことをしたとか、人間としてやってはいけないことをした、ということを、日本人は特に隠そうとするように感じる。アメリカ人はその辺良い意味でおおらかで、失敗を認めそれを反省して先に進もうという、前向きな姿勢を感じるのだ。日本人は義であることや清くあることを重視しすぎで、容易に失敗を認めないという意固地さが感じられるのだ。
「そういう印象も自虐的って言われるかなあ?」というと、「日本は恥の文化だからね。」とねこもん。なるほど、日本人はいまだにどこかで、自分の恥を認めたら生きるのをやめなくてはならないと感じてしまうのか?つまりハラキリになっちゃうんだ!それだから、恥や過ちに学ぶことでその先の生命をより良いものとしようとする、という発想にいかないのかも。だって、失敗するたびに自決してたら、それこそ命がいくつあっても足りないからね。
その点、イエス・キリストの十字架の死で人類の罪はあがなわれたと教えるキリスト教文化圏には、ある意味大きなアドバンテージがあるのかもしれない。そうだとすれば、実にありがたいこと!?
日本にもスーパー宗教改革者である、「悪人正機」の親鸞さんが出たというのに、何故失敗から学ぶ文化が育たなかったんだろうか。仏教が死後の極楽往生のためだけの教えになってしまい、つまづきに学ぶ人生の段階的カイゼンは、どうしてあまり重要視されないのだろう。
「やっぱりそれを伝えるために連れてきたんだ!」と今さらながら、深い共感と感動に心が震えた。すごいなぁ、アメリカの小学校の先生たちは!でも、黒人の子供がほとんどそのグループにいないのは不思議だけど。どんな小学校だったのか、もっとよく見てくれば良かったなぁ。何だか育ちの良さそうなこども達ばっかりだった気がする。
そう!we shall overcomeという気持ちが一番大事!差別される側も差別する側も、問題の本質を明らかにして、we shall overcome! まだまだ解決には時間はかかるだろうけど、時間の感覚さえwe shall overcome ! 大統領暗殺もwe shall overcome ! ボストンマラソン・テロもwe shall overcome!歴史観の修正主義もwe shall overcome ! 恥の文化もwe shall overcome !
ビールの酔いがまわってきて、あれこれとりとめのない考えがわきだしてくる。この晩はまたもやまんじりともせず、明け方となってしまった。